【とある淑女の肖像】

近頃、知る人ぞ知るうわさがある。
そのうわさは王宮におけるごくごく一部の界隈にて、まことしやかに影に日向にささやかれている。そのうわさを聞いた者は、とある執務官は「ようやくか」と安堵とも納得ともつかない溜息を吐き、とある侍女は「まだまだ遠い未来のお話だと思っておりましたのに……!」と嘆き、とある魔法使いは「ありえない」と一言はっきりばっさり切り捨てたという。
その容赦なくはっきりばっさり切り捨てた張本人たる魔法使い、エギエディルズ・フォン・ランセントは、くだんのうわさについて、非常に珍しくも興味を強く惹かれていた。
普段どれほど愉快な、あるいは悲劇的なうわさを耳にしようとも、「そんな与太話に踊らされている暇があるのならば、提出期限の迫った報告書の一枚でも書き上げるか、新たな論文の一説でもそらんじろ」と言い切るのがエギエディルズである。だが、今回ばかりはそうとも言っていられない理由があった。
というのも、そのうわさの中心人物が、私的な交友関係が他人と比べて著しく狭いエギエディルズにとって、どうしても捨て置けない存在であったからだ。

――次代の魔導書司官たるフェルナン・ヴィア・アディナに、とうとう将来のお相手が見つかったらしい。

ごくごく一部……すなわち、王宮の中でも国立図書館にたびたび出入りする者達の間でささやかれるうわさとは、そんなものだった。
フェルナン・ヴィア・アディナ。
現在王宮筆頭魔法使いとして日々を忙しく過ごすエギエディルズの、あまり、というかほとんど知られてはいないがれっきとした婚約者であるフィリミナ・ヴィア・アディナの、実弟である。
エギエディルズにとってはフィリミナと同様に幼馴染でもある将来の義弟は、実姉であるフィリミナにそれはもう懐いている。執心している。その実情を知る周囲の者達が、呆れるを通り越していっそ心配するくらいには、フェルナンはフィリミナのことをそれはそれはもうとんでもなく愛していた。いっそ崇拝していると言っても過言ではない溺愛ぶりである。
実弟から惜しげもなく捧げられる愛情に、基本的に他人の性格や趣味趣向について物申すことはあまりないフィリミナですら「かわいい弟ですもの……ええ、かわいい弟なのですが……」と言葉尻を濁す程度には、フェルナンのその愛情は大きく、深く、そして重いものだった。
エギエディルズとて、フィリミナに対する愛情は大きく、深く、そして重く、フェルナンに負けず劣らずどころか圧勝するほど強いものであるという自負があるが、それはそれとして、あの将来の義弟の実姉に対する愛情は少々どころではなくアレなものがある。
そんな自他ともに認める"姉上大好き世界一"をモットーにするフェルナン・ヴィア・アディナに、将来の相手が見つかった、とは。
そのうわさをたまたま耳にしたエギエディルズは、本当に久々に、心の底から驚かされる羽目になった。
アディナ家は古くから続く名家の一つとして王都では数えられ、その次期当主であり、王宮においてもその立場を確固たるものとしている次代の魔導書司官でもあるフェルナンは、控えめに言ってもそれなりに異性から人気がある。フィリミナとよく似た面差しは、とびぬけて美しいというわけではないが、見る者に好感を抱かせるには十分に足る愛嬌があり、本人の性格も姉に関すること以外においては穏やかで人当たりがよく、これまでも何度も年頃の異性をときめかせてきたと聞く。
それでも彼に浮いたうわさが一つとして持ち上がらなかったのは、繰り返すがひとえに、姉であるフィリミナへの溺愛ぶりがとんでもないものであったからだ。
そのフェルナンに、将来の、相手。
幼い頃からよくよく見知ったあの青年の性格を鑑みるに、エギエディルズはやはり「ありえない」としか思えない。とはいえ、うわさが収束する気配はない。
なんでも、フェルナンは、普段の仕事場である国立図書館の書庫にて、休憩のたびにとある肖像画を取り出しては、うっとりとそれを眺めているのだとか。そのまなざしは熱く、甘く、頬は薄紅に上気し、どこからどう見ても恋する男の姿そのものであるのだという。

「……まあ、悪い話ではないな」

別にうわさの真偽が気になったからという訳ではなく、普段通りの業務として――いいや、今更言い訳はやめよう。結局のところうわさの真偽が気になって仕方がなかったので、国立図書館の書庫に貯蔵されている魔導書の写しを自らわざわざ受け取りに来たエギエディルズは、そうぽつりと呟いた。
そうだとも、フェルナン……未来の義弟に将来の相手がようやく見つかったというのならば、それは決して悪い話ではない。むしろエギエディルズとしては立ち上がって拍手をするにもやぶさかではない話である。
王宮筆頭魔法使いの座に上り詰めてもなお、未だ叶わないかねてからの婚約者たるフィリミナとの婚姻。そのフィリミナの実弟たるフェルナンの縁談がまとまれば、自然とエギエディルズとフィリミナの縁談の話も進めざるを得ない状況になるであろうことは自明の理だ。フィリミナは気にしてはいないようであるが、彼女とてとうに結婚適齢期を迎えている。『結婚適齢期の淑女の弟』の縁談がまとまることで、その姉である淑女の縁談とて進められるべきであるとは誰もが思ってくれることだろう。
この際他力本願であると言われようがエギエディルズは構わない。もうどれほど彼女を待たせていると思っているのだ。フィリミナと結婚するためならば、どんなものであったとしても――それこそ、彼女の弟であったとしても、利用し尽くしてやる。どれだけ滑稽だと言われようが知ったことか。こちらとてもう十年以上いつか必ず来たるべきその日を待ち続けているのだ。あらゆる手を尽くし、あらゆる努力を重ね、その上でなお未だ叶わないその日を待ち続けている。
その日のためにあの未来の義弟が役立ってくれるのならば御の字だ。エギエディルズは喜んでフェルナン・ヴィア・アディナの結婚式に参列する所存である。ついでにかわいい弟が巣立っていくことでさびしがるフィリミナのそばにここぞとばかりに寄り添って「次は俺達だ」と言ってみせようではないか。
そうだとも、そういう訳で、やはりうわさの真偽は自分できちんと確かめるべきだ。という訳で、常ならば弟子であるウィドニコルに任せる国立図書館への用事を自ら請け負い、わざわざこの書庫までやってきたのだ。
目の前にそびえる扉の向こうには、現魔導書司官であるフィリミナの父であるラウール・ヴィア・アディナと、その補佐官たるフェルナンがいるはずである。
さて、鬼が出るか蛇が出るか。どちらであるにしろエギエディルズの敵ではない。願わくばぜひともフェルナンの口から「僕は結婚するぞエギエディルズ!」と高らかに宣言していただきたいものである。「お前もいつまでも姉上を放っておくなよ」とは、おそらくではなく確実に望んでも得られないに違いない発言だろうが、まあそれはいい。うまいこと引き出してやればいいのだから。
ふむ、と一つ頷いて、いよいよエギエディルズは書庫の扉に手をかけた。貴重な書物が数えきれないほど貯蔵されている書庫だ。その扉には複雑な封印の魔法がかけられており、封印の魔法式の中に登録されている者しか足を踏み入れることは許されない。王宮筆頭魔法使いともあれば当然登録されており、いつものように、何の弊害もなく足を踏み入れる。
古い書物の香りと、強い魔力が封じ込まれた魔導書が発する独特な気配が、エギエディルズを包み込んだ。心地よい感覚にほんの少しばかり朝焼け色の目を細めつつ、そのまま書庫の内部をぐるりと見回す。
いた。フェルナンだ。
どうやらラウールは不在のようであり、フェルナンは自らの執務机の椅子に座り、その両手で大切そうに持った何かを熱心に眺めている。
うわさ通り、“まなざしは熱く、甘く、頬は薄紅に上気し、どこからどう見ても恋する男の姿そのもの”だ。
なるほど、噂はそう馬鹿にすべきものではなかったようだ。となればいよいよあそこの未来の義弟も結婚か。めでたいものである。その先にある自らの結婚に浮足立ちそうになりつつ、エギエディルズはそのままフェルナンの元へと向かう。
正面から一歩ずつ、足音をひそめもせずにツカツカと近づいているというのに、フェルナンがこちらに気付く気配はない。彼がじぃと見つめるその先にあるのは、やはりうわさ通りの肖像画と思われる。姉であるフィリミナ以外の異性には見向きもしないあのフェルナンがな、と何やら感慨深くなりつつ、エギエディルズはカツン、とわざと大きく足音を立てた。フェルナンがいる執務机まで、あと三歩ほど、といった距離だ。
そこでようやく彼はこちらの存在に気付いたらしい。バッとその顔をこちらへと向けたかと思うと、限界まで目を見開き、そしてそのまま、慌ててその手の肖像画を執務机の引き出しにしまって、勢いよく立ち上がる。

「な、何をしに来た、エギエディルズ!」

おや、とエギエディルズはこうべを傾けた。予想外の反応である。いや、ある意味では予想通りではあるのだが。
いつも通りの敵意丸出しのこの発言は、決して珍しいものではない。とにかくいつも通りのものなのだ。だが、先程までの甘ったるくとろけきった表情を鑑みると、どうにも不自然な違和感が光る。
フェルナンの性格上、自身の将来の相手である女性の肖像画をここぞとばかりにエギエディルズに見せつけてきても何一つ不思議ではないと言うのに、今の彼はどうだ。まるで「見られてはならないものを見られてしまった」とでも言いたげな様子ではないか。

「『何をしに来た』も何も、依頼していた魔導書の写しを取りに来ただけだが」
「ああ、それか。そこの父上の机の上に、封筒があるだろう。持っていけ。そしてさっさと出ていけ!」
「義兄に対して随分とつれないな」
「誰が義兄だ!!」
「俺がだが」
「まだお前と姉上は婚約しているだけで婚姻は結んでいないだろうが!」
「書庫で怒鳴るな。いくらラウール殿がいらっしゃらないとはいえ、最低限の作法は守るべきだろう」
「~~~~っ!!」

ギリギリギリギリとこちらにまで歯ぎしりの音が聞こえてくる。昔から彼はこの調子だ。こうして真正面から自らの感情をエギエディルズに叩きつけてくる存在は数えるほどにもおらず、そういう意味ではフェルナンは、『フィリミナの弟』であるという点を抜きにしてもエギエディルズにとって比較的好ましい存在であると言えた。時々、いや、かなりの頻度で「うっとうしい」と思うことは割と多々あるが。
そんな彼が結婚……いやはや、やはり感慨深い。うんうん、とエギエディルズは深く頷く。そんなこちらの反応が不思議だったらしいフェルナンが「なんだ、いったい」といかにも訝しげにこちらを見つめてくる。
フィリミナと同じ色の瞳には、先程までの熱はもう宿ってはいない。あれだけの熱を込めてこの青年が見つめる先に立つ女性とは、はたしてどんな存在なのだろう。

「おめでとう」
「は?」
「聞こえなかったか。おめでとうと言ったんだ」
「……誕生日の祝いなら、もう僕は受け取ったが?」

夏の生まれであるフェルナンは、つい先日、誕生日を迎えている。エギエディルズは彼に、自らが創り上げた新しい魔宝玉から切り出した、特殊な眼鏡を贈っている。現在彼がかけている眼鏡がそれだ。
散々「お前からのほどこしなど受けるか!」だのなんだのと普段からかわいくないことを言ってくれているくせに、結局フェルナンもまた他のアディナ家の面々と同様に、決定的なところでエギエディルズに甘い。エギエディルズへの誕生日に、姉と同様に贈り物を欠かしたことがないフェルナンは、やはり自分にとってはそれなりにかわいい弟のような存在だった。
と、話がずれた。
そう、『おめでとう』とは、誕生日祝いについてではない。

「結婚相手が決まったんだろう。俺に秘密にしておくとは、随分水臭いじゃないか」
「は!? 結婚!? 誰がだ!?」
「だから、フェルナン。お前がだ。この図書館近隣ではそれなりにうわさになっているぞ」

知らなかったのか? と続けて問いかけると、フェルナンは呆然と「知らなかった……」と小さくこぼした。どうやら本当に知らなかったらしい。それどころか、どうしてそんなうわさが流れたのかも解っていない様子である。
あんな表情で異性の肖像画を眺めていたら、誰だって「いよいよか……」と思うに決まっているというのに、この未来の義弟はそういうところで妙に疎いというか鈍いというか、どうにも目が離せない。
婚約を結ぶ前の、まだまだ幼かったころのフィリミナが、「あの子が素敵なお相手を見つけるまではわたくしもそうそう結婚なんてできませんわ」と冗談めかして言っていたことを思い出す。あの時自分は「そんな必要ない」と力説したものだが、彼女と婚約を結んだ現在、この様子のフェルナンを見ていると、あの時の彼女の発言は正しかったのではないかと思えてくる。
エギエディルズとて自身が色恋沙汰というものをお世辞にも得手としているわけではないという自覚があるが、この未来の義弟はそれ以上だ。
こいつ大丈夫か。そうエギエディルズは深刻に思った。

「僕が姉上を置いて結婚なんてする訳がないのに……どこからそんなうわさが……」
「その引き出しにしまった肖像画。あれを見つめている自分の顔を鏡で見てみろ」
「へ? え、あ……っ!」

なるほどこれか! とフェルナンは引き出しを勢いよく開けた。そこにしまわれているであろう肖像画の中の淑女と目が合ったらしい彼の顔が、またしても甘くとろける。
氷砂糖の蜂蜜漬けを口にめいっぱい詰め込まれたような気持ちとはこういうものをいうのかもしれないとエギエディルズは思った。

「まさかお前が、フィリミナ以上の女を本当に見つけてくるとはな」

常々「姉上以上の女性を見つけたら喜んで結婚します」と持ち込まれる縁談のことごとくを蹴り飛ばしていたフェルナンが、よくもまあ覚悟を決めたものである。エギエディルズにとってはフィリミナ以上の女性など存在するはずもないので、フェルナンは本当に結婚する意志がないのだろうと思っていたのだが、なるほど。恋とはここまで人を変えるものらしい。
しみじみとこれまた感慨深くなるエギエディルズがそう言うと、フィリミナと同じ赤みの強い榛色の瞳が、爛と輝いてエギエディルズを射抜いた。フェルナンがすさまじい視線をこちらに向けている。慣れているので今更怖くもなんともないが、ここでその視線を向けられる意味が解らず、エギエディルズは先程よりもいっそう首を傾げてみせた。
その態度がより気に食わなかったらしいフェルナンの眉がますますつり上がる。

「姉上以上の女性など存在する訳ないだろう!」
「当たり前だ」
「……お前、それを姉上に直接言えないところ、本当にそういうところだぞ」
「…………放っておけ。それより、ならその肖像画は何なんだ?」

姉以外の女性に目もくれず、ただ姉だけを愛し尊ぶこの未来の義弟に、あんな顔をさせる存在など、それこそたった一人しか――――そう、たった一人、しか。
ハッと息を呑むエギエディルズに、フェルナンはぐぬっと言葉に詰まり唇を噛んだ。どうやら彼にとっては隠しておきたい話題であったらしい。だが、もう隠しておけないことを悟ったのだろう。開き直ったような強気な、そして何よりも自慢げな笑みを浮かべたフェルナンは、引き出しから、その肖像画を取り出した。

「これを見るがいい! 僕の理想の女性だ!」
「……!」

最初にエギエディルズの目を奪ったのは、穏やかな光をたたえた榛色の瞳だった。
真白いパラソルをかざし、同じく白のボンネットを被った女性が、振り向きざまにこちらをまっすぐに見つめている。
いつになく丁寧に編み上げられた髪に、ボンネットの赤いリボンが鮮やかに映える。地味で落ち着いた色味を好み、動きやすさばかりを重視するドレスを好む普段の彼女であれば滅多に袖を通さないような、真っ白でありながらも華やかななドレスが、とてもよく似合っている。
夏の日差しの下で微笑む彼女の、なんて美しいことだろう。
フィリミナ・ヴィア・アディナが、決して大きくはない四角いキャンバスの中でたたずんでいた。
呆然とその肖像画を見つめることしかできないこちらの反応に気を良くしたらしいフェルナンが、鼻高々に口火を切る。

「先の誕生日に、姉上が何が欲しいのかと訊いてくださってな。僕は当然姉上がくださるものならばなんでも嬉しいが、せっかく訊いてくださったんだからな。姉上の肖像画が欲しいと頼んだんだ。恥ずかしがっていらっしゃったが、ふふふふふふ、これ以上ない、素晴らしい贈り物だろう!」

フェルナンが何かを話している。けれど何を言っているのか理解できない。もうエギエディルズの耳には届いていなかった。
ただフェルナンが掲げている真白いドレスをまとうフィリミナのその微笑みしか、もうエギエディルズの世界には存在しない。
一歩、踏み出す。手を伸ばしていたのは無意識だった。

――――エディ。

最近忙しくて会えていない、いずれ妻となると約束してくれた彼女の甘い声が聞こえてくるようだった。
そして、エギエディルズの手が、フィリミナの肖像画に触れる、その寸前。

バッ!
すかっ。

フェルナンが大きくのけぞってエギエディルズの手から肖像画を遠ざけ、エギエディルズの手は見事なまでに宙を切った。

「……」
「……」

そしてそのまま無言で見つめ合うこと数秒。フェルナンが低く唸る。

「何をしようとした、エギエディルズ」
「……いや、何も」
「嘘をつけ嘘を! いくら婚約者だからとはいえ、この肖像画には指一本触れさせないからな! そもそも見るな! 触るな! 近寄るな! 僕の姉上が減る! ほらほらほらほら! さっさと魔導書の写しを持って出ていけー!!」

ぎゅうと肖像画を抱き締めて、フェルナンは怒鳴った。取り付く島もない様子である。普段であればもう少しうまいこと彼のことを誘導し、肖像画を奪うことは叶わずとも、もう少しじっくり見せてもらうことくらいはできたはずであったというのに、エギエディルズのまぶたの裏に焼き付いたフィリミナの微笑みがその邪魔をして、結局エギエディルズは魔導書の写しを片手にすごすごと書庫を後にすることしかできなかった。
珍しくもフェルナンに敗北を期した一件として、エギエディルズの心に傷を残すことになったのである。
だから、という訳では決してないのだが、その数日後、エギエディルズは久々にアディナ邸を訪れることが叶った。

「まあ、エディ。いらっしゃいまし。お久しゅうございますわ」
「ああ」

久しぶり、なんて、それは嫌味なのだろうか。
エギエディルズの脳裏にはいまだにフェルナンが見せつけてきた肖像画の中のフィリミナの姿がある。あの肖像画の中ではフィリミナはあんなにも華やかなドレスを身にまとっていたと言うのに、今の彼女がまとうそれは飾り気のない地味なドレスだ。
彼女くらいの年の頃の令嬢達は皆、流行を追いかけて我こそが一番とばかりに華やかなドレスを身にまとうのに、彼女はそんな素振りを少しも見せない。見せてくれない。いくらエギエディルズが突然訪問したとはいえ、少しくらい……そう、ほんの少しでもいいから、華やかな姿をこちらに見せたいとは思ってくれないのだろうか。それほどまでに自分は意識されていないのだろうか。
考えれば考えるほど落ち込んでいく思考とともに、エギエディルズの言葉も絶えていく。鉄壁の無表情と散々ささやかれる白皙の美貌が、ますます人形じみていく自覚はあるが、それでもどうしようもない。
他の者であれば気付けないそんなささいなエギエディルズの表情の変化に、フィリミナはすぐに気付いてくれる。気付いてくれて『しまう』のだ。
彼女の眉尻が、困ったように下がった。

「お疲れでいらっしゃるのですか? しばらく休んでいかれます?」

違う。そうではない。どんな疲れだって、フィリミナを前にしたら吹き飛んでしまう。どれだけ疲れていたとしても、フィリミナと会えるのならば、その微笑みをこの目にできるのならば、エギエディルズにとって疲れなんてどうというほどのものではないのだ。
そうだとも。彼女には笑っていてほしいのに、自分のこの表情が彼女を困らせているという事実が口惜しい。
それでも、どうしようもないほどに今、エギエディルズはフィリミナのことをなじりたくて、フェルナンのことが子憎たらしくてならないのだ。

「フェルナンの」
「え?」
「……フェルナンの、誕生祝いだが」
「え、ええと……あっ、もしかして、ご覧になられましたの?」

こちらからの低く短く、控えめに言っても言葉が足らないセリフが何を指すのかを、付き合いの長いフィリミナは、敏く気付いてくれたらしい。それが常であれば嬉しくて、自慢の一つとすら数えられるはずなのに、今ばかりはどうしようもなく苛立ちが募る。
なんてわがままで自分勝手で理不尽なのだろう。こちらの都合でずっと彼女を待たせているのに……それなのに、彼女に、フィリミナに、他でもない“真白いドレス”を着せたのが自分ではないことが、こんなにも悔しい。
令嬢が身にまとう数あるドレスの中でも、“白”は婚礼の時にのみ許される色だ。それをいくら弟とはいえ、他の男に先を越されたのが、こんなにも、そう、こんなにもこんなにも悔しい。
気付けばむっすりと黙りこくるこちらのことをどう思ったのだろう。フィリミナはそのかんばせを赤らめて、「フェルナンったら」と唇を尖らせた。

「あの子がどうしても肖像画がいいと言いまして。ドレスだって本当は別のお色のものを着ていたのに、画家の先生に『白にしてください!』なんてわがままを言って……本当に仕方のない子なんですから。白は姫様と神官様、それから婚礼の……」
「……なんだと?」
「え?」

今、聞き捨てならないセリフを、確かに聞いた。思わず口を挟むと、きょとんとフィリミナの瞳が瞬く。
どうかしたのかとこちらを見上げてくるその瞳を覗き込んでも、彼女が嘘や偽りを言っているような光はうかがえない。
フィリミナは、確かに、今、『別の色』と、そう言った。つまり。

「あのドレスは白ではなかったのか?」
「え、あ、はい。もちろんですわ。一部分に用いるならともかく、真白は姫様と神官様にのみ許されたお色ですもの。あとは、その、わたくしに縁があるとしたら……婚礼の、時、だけでしょう?」

こちらがあまりにも真剣に問いかけたせいだろうか。鬼気迫る迫力に気圧されたのか、戸惑いながらもゆっくりと噛み砕くようにフィリミナは言葉を返してくる。
そうだ。白に統一された衣装は彼女の言う通り、女神の愛し子たるこの国の姫君と、女神に仕える神官にのみ基本的に許されるものだ。つまり真白は禁色とされる。一般人が許されるのは婚礼の時のみだ。
フェルナンもそれが解っているからこそ、絵画の中だけでも自分だけの真白い姉を得ようとしたのだろう。……改めて思うが、大丈夫なんだろうかあの未来の義弟は。少々どころでなくあの青年の将来が心配になってきた。だいぶ大丈夫ではない気がしてならないのはたぶんどころではなく気のせいではない。
だが、それはさておき、そうか。
フィリミナは、まだ、真白いドレスに、袖を通していないのか。
その事実を知れただけで先程まで胸の内に凝っていたどろりとした薄暗い感情が驚くほど簡単に晴れていくのを感じた。
ほうと安堵の息を吐く。その溜息を呆れの感情の表れだと勘違いしたらしいフィリミナが、慌てたように「あ、あの」と声を上げた。

「その、あの、真白のドレスは……いつか、実際に、着ることになるでしょうから、その予行練習みたいな、感じ、です」
「……!」

いつも穏やかに、清流のごとく言葉を紡ぐ彼女らしからぬ、とつとつとした物言い。彼女が何を言いたいのか解らないほど、流石にエギエディルズだって鈍くはない。
淡く薄紅に色付いたその頬に口付けられたら、その華奢な肢体を抱き締められたら。
婚約者たる自分はそれが許されているのに、未だに手を伸ばす勇気が出せずに握り締めることしかできず、「そう、だな」とただ頷くばかりの自分の不甲斐なさを、エギエディルズは心の底から悔やんだのだった。

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