【本日は晴天なり】
今日もいい天気だ。空にこんな風に澄んだ青が広がる日こそ、お洗濯日和と呼ぶのだろう。
心地よく頬を撫でていく春風に目を細めつつ、最後のシーツを洗濯竿に大きく広げてかける。立派な貴族夫人が自ら洗濯をするなんてありえない! とよく言われるが、私、フィリミナ・フォン・ランセントの場合、なにせ夫があの純黒の王宮筆頭魔法使いたるエギエディルズ・フォン・ランセントだ。いわゆる“使用人”という存在の募集をかけても、あの男に恐れをなして、その辺のお嬢さんやご婦人、そして青年達はランセント家別邸の使用人になんてなりたがってくれないのである。相場よりもよっぽど高給なのに、と思えども、そういう問題ではないと言われればそれまでの話だ。
それを悪いことだとは思わないし、何より、私自身が家事をこなすことを割と好ましく思っているので、結論として問題はないと言えるだろう。
洗濯竿に広げたシーツのしわをピンと伸ばして、よしよし、本日のお洗濯、これにて完了だ。
空っぽになりすっかり軽くなった洗濯かごを片手に、中庭から屋敷の中に戻る。休憩にお茶でも淹れようかな、と思いつつ、風通しのために先程私が開け放しておいたリビングの扉の前を通り過ぎようとすると、「フィリミナ」と短く声をかけられる。
特別高いわけでも低いわけでもない、けれど不思議と鼓膜を心地よく震わせてくれるその声音に足を止めてリビングを覗くと、くだんの夫がソファーに腰掛けてこちらを見つめていた。
「薬草茶を淹れておいたぞ。休憩しないか」
「あら、嬉しいこと。ありがとうございます、エディ」
「大したことじゃないんだが」
「ささいなことでも感謝を忘れずにいるのは大切なことですよ。夫婦円満の秘訣だとお母様が」
「……義母上の仰ることは本当に含蓄があるな」
「ふふふ」
ローテーブルの上にティーセットを並べて私のことを待っていてくれたらしい男は、その美貌に、なんとも複雑そうな表情を浮かべた。
私の実家であるアディナ家におけるヒエラルキーの頂点に立つ私の実母、フィオーラ・ヴィア・アディナ夫人には、流石のこの男も強く出られないらしい。いつだって穏やかで優しい笑みを浮かべている母は、時折、とんでもなくとんでもない発言をかましてくださる方であるせいだろうか。なお我が実父であるラウール氏は、「そんなところもフィオーラの魅力だ」と断言してくださる。娘相手に惚気るのも大概にしていただきたい……と、話がずれた。
それよりも今は、せっかくこの男が淹れてくれたお茶を楽しもう。リビングの扉の前に洗濯かごを置いて、いそいそと男の隣に座る。
手際よく男がカップにポットから薬草茶を注いでくれた。同時にふわりと鼻をくすぐる爽やかな匂いに、自然と笑みがこぼれてしまう。
「新作ですか?」
「ああ。あたたかくなったからな。少し薄荷を加えてみた」
「まあ素敵。夏にもよさそうですね」
清涼感あふれる匂いに目を細めながら、カップを口に運ぶ。ほの甘さの中から、ミントの爽やかさが鼻に抜けていく。
うーん、炭酸水があったら、ティーソーダにもできるのに。夏にはぴったりの飲み物になりそうだ。もちろんこのままでも十分おいしいし、夏にアイスティーにするのはとても楽しみなので、不満なんて一切ない。身体の中まですっきり洗い流されていくような感覚が心地よい。
こくこくと一気に飲み切ってしまったところで、不意に隣から向けられている視線に気が付いた。
「どうなさいまして?」
何やら物言いたげにこちらを見つめてくる夫に、カップをテーブルに戻して首を傾げてみせる。男はらしくもなく、うろ、と視線をさまよわせた。
おやおや、いつだってはっきりすっぱりさっぱりばっさりとした台詞を意識的に発しているこの男が、珍しくも何かを言うのをためらっているようだ。私相手に今更何を言い澱むと言うのだろう。婚約時代は塩を通り越した岩塩対応、結婚した今でこそ多少なりともマシになったとはいえ、それでもなお甘じょっぱさが残っているというのに。
ここでもう一度「ですからどうなさいましたの?」とでも言って問い詰めることはたやすいけれど、それをしたらこの男、そのまま黙り込んでしまう可能性が大いにあり得る。そして最終的に「……なんでもない」と何もなかったことにしてしまいかねない。
びっくりするほど鮮明にその憮然とした表情と拗ねた声音が想像できるので、私は大人しく黙ったまま男の言葉を待つ。沈黙は金。
そうしてじぃと見つめ合うことしばらく。そろそろもう一度促した方がいいかな、と私が思い始めたころ、男はようやくその薄い唇を開いた。
「今日は、休日だろう」
「え? あ、はい。然様にございますね」
そう、今日は休日である。いつも休日返上で王宮に登城しているこの男が珍しく自宅でゆっくりしている、本当の意味での休日である。
亭主元気で留守がいいとは言うが、この男の場合、本当に元気すぎて基本的に屋敷にいないので、本日のように昼間から私の隣で、しかもその手に持ち帰ってきた仕事の書類も持たずにのんびりくつろいでいるその姿は、まあ正直言って見慣れない。なんだか不思議な気分になりすらする、と言うのは流石に言い過ぎだろうか。
このランセント家別邸の主人は間違いなくこの男だ。屋敷の主人が休日にリビングでくつろいでいて何が悪いと問われれば、「何一つ悪いことなどございません」と粛々として答えるしかない。
そんなこの男が、そのたまの休日に、一体何を私に伝えようとしているのか。
うーん。あ、そうだ。
「お仕事が気になられるのでしたら、わたくしに構わず今からでも王宮に……」
「違う」
「あら」
食い気味に否定されてしまった。なんだ、てっきりまた私を屋敷に残して休日を返上するつもりかと思ったのに。
そういう訳でもないと言うのなら、はてさて何が言いたいのやら。重ねて更に首を傾げてみせると、男はわざわざこちらに身体ごと向きを変え、極めて緊張した面持ちになった。
おや、おやおやおや? と戸惑う私の手に、そっと男の手が重ねられる。あらまあ、と今度は驚いていると、相変わらず緊張した面持ちのまま、ようやく男は口を開いた。
「出かけないか」
「え?」
「だから、一緒に出かけないか? どこでもいい。お前の行きたいところで構わない。その、いわゆる……」
「……デート、の、お誘いですか?」
「…………ああ」
こっくりと、それはそれは重々しく男は頷いてくれた。ぽかん、とつい大口を開けて固まってしまった私を誰が責められると言うのだろう。
この男が。エギエディルズ・フォン・ランセントが。休日に仕事をするでもなく、よりにもよって、改まって、自分は用事もないのにデートのお誘い!
これで驚かない方がどうかしている。まさかそう来るとは思わなかった。
デート。逢引。二人きりでお出かけ。随分と久しぶりのその響きにただただ呆然としていると、その私の沈黙をどう思ったのか、男の大真面目に取り繕っていた表情が、いつもの無表情へとすぅっと移り変わった。
ほんのわずかな変化だけれど、解る者には解る明確な変化だ。あ、と思った時にはもう遅い。
「いや、いい。すまない、突然だったな。聞かなかったことに……」
「する訳ないではありませんか!」
「っ!?」
重ねられていた男の手を私の方から両手で握り締め、身を乗り出した声を上げる。
自分でも思いの外大きくなってしまった声に男が驚いたようにその朝焼け色の瞳を見開くが、この際構ってなんていられない。
「あなたとデートだなんて、ふふ、なんて素敵なんでしょう。どこに行こうかしら? ああそうだわ、郊外の野原の花畑がちょうど見頃を迎えているんですって。そちらへピクニックなんていかがでしょう? お弁当を持って……わたくしが作るのもよろしいですが、たまには街でお持ち帰りの軽食を買って、それを持って行きませんこと? こんなにもいい天気なんですもの!」
洗濯日和ならば当然ピクニック日和でもあると言っていいはずだ。街をのんびり練り歩きながら何かしら昼食を買って、そのまま花畑へ、なんて、我ながらとてもいい計画である気がする。
ああ、考えるだけでわくわくが止まらない。この男と二人きりでゆっくり出かけられる機会なんてそうそう得られないのだから、めいっぱい楽しまさせていただく所存である。
ふふ、ふふふふふ、ああだめだ、我慢しようにも笑みがこぼれて仕方がない。
「ピクニックでいいのか? お前が欲しいもの……ドレスや装飾品を新調しに行ってもいいんだぞ?」
「まあエディ! ドレスや装飾品はいざとなればどうとでもできますが、今日のように晴れ渡る休日をあなたと過ごせる機会なんてそうそうないのですよ? わたくしはドレスよりも装飾品よりも、あなたとゆっくり過ごす時間が欲しいですわ」
「……そうか」
「はい」
男は納得しているのかいないのか、なんとも微妙な表情になったけれども、その白い耳にうっすらと赤みが差したのは隠し切れていない。
私はにっこりと頷いてすっくと立ち上がる。
さあさあ、そうと決まったら話は早い。
「ではエディ、おでかけの準備をしましょう。用意でき次第玄関に集合ということでお願いいたします。わたくしはまずはこちらのティーセットを片付けてまいりますね」
「それくらい俺が……」
「これくらいわたくしが。さ、エディ、お着替えを。また後でお会いしましょう」
使い終えたティーセットを手早くワゴンへと移動させて、さっさとリビングを後にする。男はまだ何か物言いたげだったけれど、申し訳ないがもう「やっぱりデートはなかったことに」なんて言わせられない。撤回される前にサクサク話を進めてしまおう。
我ながらずるい真似だとは解っているけれど、久々のデートという機会にこんなにも心を浮き立たせてしまう程度には、私はあの男に惚れている訳であって、そこはそれ、ご勘弁願いたいところである。
厨房にワゴンごと運び込み、これまた手早くさっさと食器を洗い終え、ついでにいつも食材の買い出しの際に持っていくバスケットを手に取った。
本日の昼食は先程男に提案した通り、街で何かしら軽食を買おう。ふふふふふ、ふふ、うーん困った。浮かれた笑みが込み上げてくるばかりでちっとも収まってくれる気配がない。
そのまま軽い足取りで夫婦の寝室へと急ぐ。私が洗い物をしている間に男は準備を済ませたらしく、もうその姿はこの部屋にはない。それをいいことに、私は自分用のクローゼットを大きく開け放した。
何を着ようかな、とじっくり中を見回す。先程ミントティーを頂いたせいだろうか。春らしい、瑞々しく爽やかな緑のドレスが最初に目に飛び込んできた。
「……うーん」
その華やかな緑を手に取ろうか迷ったけれど、結局、二つ隣の一着を取り出した。
いつも通りどころか、いつも以上に地味で、シンプル極まりないドレスである。私くらいの年頃の貴婦人が身にまとうにはいささかどころではなく背伸びしすぎた、落ち着いた淡い鴇鼠色の地に、首周りと袖口にだけ、申し訳程度のレースがあしらわれたものだ。
祖母の往年の遺品であり、母すら未だに袖を通そうとはしなかったものを、アディナ家からこの屋敷へ持ってきていたのだけれど、今日のピクニックはこれがいいだろう。
物持ちのよかった祖母らしく、ドレスは古かろうともシミも虫食いの穴もなく、着心地はばっちりだ。髪はこのままでいいし、お化粧は口紅を少しだけいつもより濃いめに引いて、よし、完璧。一枚くらい何か羽織るもの……は、なくても大丈夫だろう。今日はこんなにもあたたかいのだから。
よしよしよし、と鏡の前で頷いて、バスケットを再び手に取って玄関へと急ぐ。
玄関の前には、予想通り既に、我が夫が薄手の外套を羽織り、そのフードを深く被って、静かに佇んでいた。
私の忙しない足音にすぐに気付いてくれた男は、ちょいとフードを持ち上げて、こちらの方を振り返ってくれる。それだけでどうしようもなく嬉しくなってしまうのだから、私も大概安い女だ。いいや、他でもないこの男をわざわざ〝振り返らせて〟いるのだから、むしろ私は超高級品なのかもしれない、なんて、冗談のようなことを考えつつ、ドレスの裾を少しばかり持ち上げて一礼する。
「お待たせしました、エディ」
「ああ、大して待ってなど…………」
「……エディ?」
大して待ってなどいない、と続けられるはずだったのだろうな、と思われる男の台詞が、不自然に途切れた。どうかしたのかと視線で促す私を、男はじっと頭のてっぺんから足のつま先まで見つめてきた。
なんだなんだ、だから一体どうしたのだろう。
その視線の意味が解らず、どこかおかしいだろうかとなんだか不安になってくる。そわ、と私が身動ぎすると、男はやがて「なんでもない」と一言告げて、私に手を差し伸べてきた。
いやいやどう見ても〝なんでもない〟ようには見えないのですが……と思いつつも、私はその手に自らの手を重ねる。自然といわゆる恋人繋ぎになる互いの手に嬉しくなる。そしてそれはきっと男も同じで、それがまたより一層嬉しくて、私はそのまま浮き立つ気持ちで男と共に屋敷を後にした。
自宅であるランセント家別邸は王都のはずれにあり、城下町に出るには少々距離がある。常ならば馬車を使うところなのだけれど、今日はなんだかそれももったいなくて、手を繋いだまま歩きで城下へと向かうことにした。
「あの、エディ。お昼は何にしましょうか? 市場の出店で何か買えたらと思っているのですけれど」
「お前が食べたいものでいい」
「あら、わたくしだってあなたが食べたいものが食べたいと思っておりますのに」
私は日常的に市場に訪れているから、私が食べたいものはいざとなればいつだって食べることができる。けれど市場に寄り付かないこの男は別だ。せっかくなのだからこの男が食べたいと思ってくれるものを買いたいと思っているのに。
舌が肥えているわりに基本的に食事にそこまで執着がないというなんとも面倒くさ……失礼、なんとも複雑な性格をしているこの男。よし、こうなったら私が市場で一番おすすめの出店に案内してみせようではないか。
「特にご希望がないのでしたら、サンドイッチはいかがです? 大きなお肉の塊をそのまま串焼きにして、それをその場で大きく削いでお野菜と一緒に挟んでくださるんです。豪快なようでいて、香辛料の使い方が絶妙でして、なかなか他では食べられないんです」
以前からこの男にも食べてもらいたいと思っていたのだけれど、出店のご主人曰く、「このサンドイッチは出来立てが一番うまいんだ!」とのことで、残念なことに今日までこの男に紹介できなかったのだ。
けれど、そう、今日ならちょうどいいだろう。
買ってすぐに野原に向かって、花畑の中で食べるほかほかはふはふあつあつのお肉のサンドイッチ。うーん、我ながらなんて素敵な考えなのだろう……って。
「あの、エディ? わたくしの顔に何かついていますか?」
何故かじっと見下ろされている。そんなにもこちらばかりを見ているくせによくもまあ足をまろばせないものだと感心してしまうくらいには視線を感じる。
フード越しでも確かに感じるその視線を見つめ返す。その途端、うっかり足元の石畳の段差に足を取られたのは私の方だった。
「きゃっ!?」
がくんっと膝が曲がって身体が思い切り前に傾く。けれどそのまま頭から転ぶことに……なんてことにはならなかった。
繋いでいた手を引っ張られ、そのまま男の身体の方にもたれかけさせられるような形で事なきを得る。思い切り跳ねてそのまま口から飛び出しそうになった心臓を飲み込み、ほうと安堵の息を吐く。
「気を付けろ」
「は、はい。ありがとうございます、エディ」
「そう思ってくれるならば、ほら」
「え」
「俺の腕はお前のためにいつでも空けてあるぞ」
「……!」
繋いでいた手を離し、自らの腕をこちらに示してくる男の姿に、一拍遅れてその体勢の意味を理解する。
いいのだろうか。本当に、いいのだろうか。そう男の顔をうかがうと、フードの下で男は確かに頷いてくれた。
それをいいことに、私はおっかなびっくり男の腕に自らの腕を絡ませて、そっと身体を寄せる。
手を繋いでいただけの時以上に密着する状態に、今まで以上に胸が高鳴った。この鼓動が伝わっていたらどうしよう、こんな距離では伝わらない方がおかしいだろう、ああ、でも、このどきどきは、きっと私ばかりのものではなくて。
「……サンドイッチと、あとは何か、果物も買えたらと思っております」
「……そうだな」
そうして私達は、お互いにそれ以上何を言うでもなく歩み続け、賑わう城下町へと到着した。
普段から人通りの多い大通りだけれど、今日は休日であるだけあってもっと人混みでごった返している。これでは手を繋いでいたとしてもはぐれてしまったかもしれない。そう思うと、こうして腕を組んで歩くのは最適解なのだろうと、自分を納得させる。
気恥ずかしさは未だにあるけれど、それ以上にこの男とこうして大通りを堂々と歩けるのがこんなにも嬉しい。男の腕に絡ませた自分の腕にぎゅっと力を込める。男が驚いたようにわずかに肩を揺らしたけれど、振り払われるどころか男もまた私の腕を挟み込む腕の力を先程までよりも強くしてくれたから、余計に嬉しくなってしまった私はまた笑った。
そしてそのまま第一の目的地である市場へ――――では、なく。
「ええと、エディ、エディったら。あの、どちらへ向かわれるのですか?」
「いいからついてこい」
「はい?」
何故か男の足は市場ではなく大通りの更に奥、いわゆる高級専門店街へと向かっていた。その男と腕を組んでいる私は、訳も解らないままについていくことしかできない。
自分で言うのもなんだけれど、私とて王都住まいの貴婦人だ。この高級専門店街へ訪れたのは一度や二度ではないし、なんなら懇意にしている店だってある。けれど今日はこちらに用はなく、高級専門店とは正反対と言ってもいい、花畑が見頃のただの野原へ行くはずだったのに。
何故だ。何がどうして高級専門店街。
この男の個人的な買い物があるのだろうか。だったら先にそう言ってほしかったと言うのはわがままだろうか。本日の私の服装は、流行の最先端を走るこのあたりの景観には少々どころでなくそぐわない自信がある。
なんとも落ち着かない気持ちで男の隣を歩きつつ、ちらちらとそのフードに隠された顔を見上げてばかりいると、やがて男の足が、とある店の前でぴたりと止まった。つられて私も立ち止まる。
そうして見上げた先にある看板に描かれている文字に、ぱちりと大きく瞬きをした。
「衣料品店、ですか?」
「ああ」
そう、仕立て屋ではなく、衣料品店である。この場合において、前者はオーダーメイドであり、後者はレディーメイドという意味となる。
この男はいつも前者を利用していたはずだが、そんなにも急を要する衣料品があるのだろうか。
ショーウィンドウに飾られた洒落たドレスについつい見惚れていると、くんと腕を引っ張られて、そのまま店の中へと男によって引き摺り込まれる。
ひええ恐れ多い……! とおののく私のことなど何のその、笑顔で近づいてきた店員のお美しいお嬢さんの前に、男は私をずずいと突き出した。
「エッ、エディ!?」
「彼女の体型に合うドレス……ああ、ガーデンパーティー程度に使えるものを、すべて出してくれ」
「!?!?」
何を仰いまして!? と慌てる私のことなど、男も店員のお嬢さんも完全にスルーである。
店員のお嬢さんは首からかけていたメジャーで手早く私を採寸すると、店のあちこちを回り、何着かの、男の言う通りの〝ガーデンパーティー〟に相応しいであろう、華やかでありながらも軽やかなドレスを目の前に並べてくれた。
い、「いかがでしょう?」と言われても。そうは言われましても!
どうしたものかと硬直するばかりの私をよそに、男は並べられたドレスをさらりと一瞥し、そしてかぶりを振った。
「どれも今一つ物足りないな。……ああ、そうだ。あれはどうだ?」
男の白い指がすいと伸び、店の片隅の、他のドレスに埋もれるようにして佇むトルソーを示した。まあ! と店員のお姉さんが嬉しそうな声を上げ、「仰る通り、あちらもサイズとしては問題ないかと。すぐにご用意します」といそいそとそのトルソーがまとうドレスをこちらへと持ってくる。
それは、春の訪れを感じさせる、淡い紫色のドレスだった。春らしい、華やかでありながらも優しく上品なパステルパープルだ。首周りは大きな白のレースが飾り、ちょうど鎖骨の中心に愛らしい小花の細工が鎮座している。袖はふんわりとふくらみを持たせてあり、袖口を襟ぐりと同じ白の生地がきゅっと引き締める。
「まあ、素敵……」
「これを彼女に。この場で着替えていく」
「えっ!?」
いや確かに私、素敵と思わず呟いてしまったけれど、欲しいとは一言も言っていませんが!?
なんですと!? と私が目を見開くのもこれまた完全にスルーして、店員のお嬢さんは粛々と「かしこまりました」と一礼し、私の手を取って試着室へと引き摺り……そう、〝引き摺り〟としか表現できないような、丁寧でありながらも有無を言わせない強引さで紫のドレスと一緒に引き摺り入れてくださった。
「着替え終わるまで出てくるなよ。会計は済ませておく」
試着室の薄い扉の向こうから聞こえてきた声音に、私は挑んでもいない勝負に負けたことを悟った。この声音、この言い振り、もうこの男、私にノーと言わせる気がまったくない。皆無である。
基本的に私に甘い……そう、結婚してから、なんやかんや色々あるたびにどんどん私に甘くなっていく我が夫だが、それでも時々とんでもないことを私にしでかしてくれることがある。今がまさにそれだ。
もはや逆らう気も起きず、大人しく今の鴇鼠色のドレスを脱いで、押し付けられるように渡された淡い紫色のドレスに袖を通す。
解らない。本当に解らない。うう、なんだってこんなことに。
疑問は尽きないけれど、こうなってしまったらもう仕方がない。着替えを終えて大人しく試着室を出ると、「まあ!」と店員のお姉さんが歓声を上げてくださった。「とてもよくお似合いですわ。旦那様のご慧眼、恐れ入ります」とかなんとか褒め称えてくださるお嬢さんに、曖昧に笑い返すことしかできない。お褒めにあずかり光栄であるが、どうにも落ち着かない。普段あまりこういう若々しい色は着ないし、今日は特にそのつもりがなかったからなぁ……と遠い目になっていると、「フィリミナ」と短く声をかけられる。
手招かれるままに会計を既に終えたらしい男の元に歩み寄ると、がしりと両肩を掴まれて、くるりと身体を反転させられた。
「え、あの、エディ?」
「動くなよ」
「は、はい」
髪に触れられているのだとすぐに解った。なんだろう、と思っているそばから、店員のお嬢さんが手鏡を差し出してくれる。
「できたぞ」という男の声に促されて手鏡を覗き込むと、ドレスと同じ淡い紫の生地を贅沢に使った髪飾りが、私の髪を飾っていた。店員のお嬢さんは「ドレスの共布で作ったものです。ご一緒にどうぞ!」とにっこにこの笑顔である。いやこれ以上は……と思えども、もう男はこちらも会計済みであるらしい。ついでに私が元々着ていたドレスを包んでもらい受け取っている。仕事が早すぎる。
唖然とする私は、そのまま男に手を引かれて衣料品店を後にすることとなった。
はぐれないようにと先程のように腕を組み直しつつ、何が何だか解らないままにドレスを買ってもらってしまったことを、喜べばいいのか、申し訳なく思えばいいのか、それとも悲しめばいいのか、実に複雑な気分になった。
「エディ」
「なんだ」
「どうしてまたドレスなんて……。お祖母様のドレス、そんなにもわたくしには似合っていなかったでしょうか?」
それこそわざわざ新しいドレスを買い直してその場で着替えさせるくらいに、私はみっともなかっただろうか。この男の隣を歩く女として、相応しくなかっただろうか。
そう思うとやはりなんとも悲しくて、我ながら解りやすくしょんぼりとしてしまう。
今度こそ市場へと向かっているはずの足取りが重くなり、ともすればその場で立ち止まってしまいたくなる。けれどその足が動かなくなるよりも先に、男の腕が私の腰へと回って、すいっと抱き上げるようにその身に引き寄せてくれる。
「そうじゃない。先程のドレスだって、地味だが似合っていた。お前なりの気遣いだったということも解っている」
「……わたくしの気遣いなんて、そんな、大それたものは」
「ないとは言わせないぞ。俺が目立つのを嫌がるからと、わざととびきり地味なドレスを選んだだろう。いつも以上にあそこまで地味にされたら、いくら俺でも解る」
「…………」
返す言葉もない。地味だ地味だと何度も繰り返されてしまったが、そうではないとは決して言えない。その通りなのだから。
せっかくのピクニックデートなのだから、あの爽やかな緑のドレスを着たってよかった。そうだとも、あちらの方がよほど〝デート〟に相応しい。
けれどそうできなかったのは、この男の隣を歩くためだった。下手に目立つドレスを着て、人目を避けるためにフードを深く被っている男の配慮を無駄にしたくなかった。
けれどそれは、この男にとっては大きなお世話であったらしい。
「お前の祖母君のドレスも見事なものだったが、まだお前には早いだろう。俺は今しか見れないお前が見たい。祖母君のドレスは、お前が見合う齢になったときに、また着てみせてくれ」
「……はい。そのときは、完璧に着こなしてみせますね」
だからそれまで待っていてくれますか。そう続けると、男はフードをまた少し持ち上げて、私をまっすぐ見下ろして、その唇に綺麗な三日月を描いてくれた。
「当然だ」
はっきりと断じてくれる言葉が何よりも嬉しくて、私もまた笑って頷き返す。
そのまま私達は改めて腕を組んで、市場でお目当てのサンドイッチを購入し、野原へと向かった。うわさ通りの見事な花畑ではなく、その花畑にはしゃぐ私ばかりを眺める男にいくら抗議しても、「お前以上に美しい花がないのだから仕方がないだろう」なんて言われてしまっては、もう私は白旗を上げるより他はなかったのである。
そうして、私のクローゼットには、とっておきの思い出が詰め込まれた新たなドレスが加わることになったのだった。