【Shall We Dance?】

高位神官にして王弟たるクランウェン殿下の栄誉ある護衛騎士エディルカ・ヴィンス――もとい、その仮初の姿に扮する王宮筆頭魔法使いエギエディルズ・フォン・ランセントは、王宮において王族の居城とされる紅薔薇宮の廊下を一人歩いていた。
繰り返しになるが、“エディルカ・ヴィンス”は、クランウェンの護衛騎士である。彼のそばを離れて一人行動するなど、本来褒められた行為ではない。その褒められない行為が認められる数少ない例外が、“護衛騎士エディルカ”ではなく、本来の立場である“王宮筆頭魔法使いエギエディルズ”としての働きが求められる場合だ。
このヴァルゲントゥム聖王国において指折りの魔法使い達が集う黒蓮宮、その頂点に立つエギエディルズでなくては解決できない仕事、というものは日々多かれ少なかれ存在し、その本来の役目を果たさなくてはならない場合にのみ、エギエディルズ、もとい“エディルカ”はクランウェンのそばを離れることを許される。
今回も同様の理由であり、手短に急を要する黒蓮宮での業務を終えて、エギエディルズは再びエディルカの姿に扮して、クランウェンの元へと急いでいるというわけだ。
個人的な意見、正直な感想、ぶっちゃけた本音が許されるのならば、はっきり言おう。エギエディルズはクランウェンの安否について、それほど重きを置いていない。ただ現状として、クランウェンに何か起きた場合、責任を問われるのは護衛役であるこの自分、“エディルカ・ヴィンス”と、そして世話役の侍女という役目を任されているフィリミナ・フォン・ランセントだからこそ、急いでいるだけなのだ。

――いつまでも二人きりにさせておけるか。

つまりはそういうことである。
エディルカ、ではなく、エギエディルズの妻であるフィリミナを、あのいけ好かないクランウェンの元に、『二人きり』という状況で置いておきたくないというのが、エギエディルズの嘘偽りない本音だった。
此度の大祭に向けて、クランウェンのそばに余計な人材を置いておくことは望ましくない分、エギエディルズとフィリミナばかりが、よりクランウェンのそばにいることを求められる。
エギエディルズが不在となれば、その間、フィリミナだけがクランウェンのそばにいることになるのだ。そう、すなわち二人きり。
クランウェンの思惑がどこにあるのかが知れない状態で、彼のそばにフィリミナだけを置いておく、なんて、エギエディルズには受け入れがたい現実である。
エギエディルズの自称友人達がこのエギエディルズの所感を聞けば、とある勇者は「エギエディルズらしいね」と苦笑し、とある姫君は「フィリミナも苦労するわね」と溜息を吐き、とある騎士団長は「お前の場合、クランウェン殿下じゃなくても同じこと言うだろ」とからから笑い、とある弟子は「師匠のそのフィリミナさんへの情熱のおかげで黒蓮宮が回っているので……」と遠い目をすることだろう。やかましい、放っておけ。この気持ちがお前達に解ってたまるものか――とかなんとか内心で吐き捨てて、エギエディルズは騎士としてのマントをひるがえしながら足を急がせる。
クランウェンとフィリミナは、この紅薔薇宮において用意されたクランウェンの執務室にいるはずだ。「フィリミナのことは私に任せて、君は君の仕事を心行くまできっちりと完璧にゆっくりこなしておいで」とエギエディルズのことを送り出してくれたクランウェンの笑顔、思い返すだに腹立たしいことこの上ない。
その背後に控えていたはずのフィリミナをさりげなくも強引に自らの隣に引き寄せて、彼女の肩に手を添えたこともしっかりばっちり覚えている。“エディルカ”ではなく“エギエディルズ”だったら、そのフィリミナの肩の上の不埒な白い手に光の精霊を呼んで、盛大に静電気を弾けさせてやったというのに、まったくこの“エディルカ”という存在は不便なものだ。
胸の内にどんどん蓄積される苛立ちに、つい盛大に舌打ちを一つ。運悪くそのタイミングで隣を通り過ぎていった衛兵が「ヒッ!?」と顔を青ざめさせたが知ったことではない。
そんなことよりもとにかく今はクランウェン……ではなくフィリミナだ。そう、期間限定の義務としての護衛対象であるクランウェンではなく、本当の意味でエギエディルズが生涯をかけて守りたい相手であるフィリミナなのだ。
現在のこの国における王族の数など数える程度しかいないというのに、無駄に広い紅薔薇宮に更なる苛立ちが募るのを感じつつ、カツカツカツカツカツカツカツとそれはもう高らかな靴音を立てながらエギエディルズは足を急がせ、そして、不意にその足をぴたりと止めた。

「……?」

次の角を曲がればようやくクランウェンの執務室がもうすぐ、というところだった。いくつも重なる、まだ年若い女性達の声が、角の向こうから聞こえてきた。別にそれだけであればエギエディルズが足を止める理由など一つとしてなく、文字通り皆無であり、フィリミナの元へと急ぐだけだったのだが、その小鳥のさえずりのような声の重なりの中に混じる聞き慣れた声に、エギエディルズは足を止めざるを得なかった。

「ですから、わたくしにはそのような権限はないのです。申し訳ないのですが……」

聞き間違えるはずがない。エギエディルズの妻、フィリミナの声だ。いつも穏やかな口ぶりの彼女だが、この声音はどうにも心底困り果てているようなそれである。
つい無意識に整った眉をひそめながら、角からそっと顔を覗かせて、状況をうかがう。
エギエディルズの視線の先では、ティーセットの乗ったワゴンに手を添えたフィリミナが、先程の困り果てた声そのままの困り果てた表情で眉を下げており、その周りを、フィリミナと同様のお仕着せの侍女服に身を包んだ年若い女性達が取り囲んでいた。
穏やからしからぬ様子にますます眉根を寄せるエギエディルズに気付く様子もなく、フィリミナを囲む女性陣は、ますます彼女に詰め寄り始める。

「いいじゃないですか! ちょっとお願いしてくれるだけでいいんですよ?」
「そうですわ! 私達だって別に遊びで頼んでるわけじゃないんだから!」
「エディルカ様に貴女から、一言言ってくださったら、あとは私達が自分で頑張りますわ」
「エディルカ様とのきっかけをちょっとだけ作ってくださいな。ね、いいでしょう?」
「えええええっとですね、それはその……」

遠目にもはっきりとそうと解るほど、フィリミナの愛らしい眉が下がり、典型的な困り眉になる。
そんな表情も魅力的だが、彼女に困り顔をさせていいのはエギエディルズだけであって、自分以外の誰かが彼女にそういう表情をさせるならば話は別だ。
女性達の中から出てきたのは、間違いなく現在の“自分”もとい、“エディルカ”の名前である。なるほど、またか。ある意味ではフィリミナに困り顔をさせている原因は今回も“自分”であると見た。だがしかし、それはエギエディルズを喜ばせる意味合いでの原因ではない。
気付けばエギエディルズは、大きく足を踏み出して、フィリミナを中心とした女性陣達の元へと向かっていた。
そんなエギエディルズに最初に気付いてくれたのはやはりフィリミナだった。自らを囲む女性陣の向こうから、「あら」と小さく呟いてわずかに目を瞠る彼女に頷いてみせると、フィリミナは「助かった」というよりは、「余計に面倒くさいことになった」とでも言いたげな微妙な表情を浮かべた。
夫に向かってその表情はないのではないだろうか。若干エギエディルズは傷付いたが、その痛みを顔には一切見せずに、構うことなく彼女達の元まで歩み寄る。
こちらに背を向けたままフィリミナを囲む女性達は、まだ気付かない。それをいいことに、完全に不意打ちを狙って、エギエディルズは意識的に普段よりも大きめの声で、活舌よく言葉を紡いだ。

「俺が、なんでしょうか?」
「きゃあ!?」
「エ、エディルカ様!?」

エギエディルズの気配に一切気付いていなかったらしい女性陣は、文字通りその場で飛び上がって驚きをあらわにし、慌ててこちらへと振り向いてきた。
そしてその瞳にエギエディルズ――彼女達にとっては“エディルカ”――の姿を認めると、一斉に顔を赤らめて、慌てて髪を撫でつけたり、スカートの裾を払ったりなど、それぞれが思い思いに身なりを整え出す。そして憧憬と思慕、それからそこはかとない期待を込めた目でちらちらとこちらへと視線を向けてくる女性達を見下ろしてから、エギエディルズは構うことなく彼女らの向こうに立つフィリミナを見つめる。
女性達の仕草のひとつひとつを「あらあら」と微笑ましげに眺めるばかりだった彼女は、こちらの視線に気付くと、スカートの裾をわずかに持ち上げて、侍女として完璧な一礼をしてみせた。

「お疲れ様にございます、エディルカ様」
「……いや」

直前まで窮地に陥っていたとしても、自らの立場と業務を忘れないエギエディルズの妻は、本当によくできた妻である。それでこちらが若干どころでなくさびしい思いを味わっていることに気付いていないはずがないのに、それでもなお「仕事は仕事、私事は私事」ときっちりはっきり線を引く彼女は、繰り返すが本当にとてもよくできた妻なのだ。
そんな反応を返されてしまっては、エギエディルズとて“エディルカ”としてそっけなく返事をすることしかできない。ここで彼女を引き寄せて、王宮筆頭魔法使いとしての業務を特急でこなしてきたことについての褒美を求めたら、彼女はどんな顔をするだろうか。どんな褒美をくれるだろうか。
そんな風に脇道に逸れていくエギエディルズの思考に、無理矢理割り込んできたのは、エギエディルズとフィリミナの間にいつの間にか壁のように並んで立つ女性達だった。

「あ、あの、エディルカ様!」
「…………何か?」
「え、えっと、あの、その、わ、わた、わたし、達とっ」
「ちょっと貴女、早く言いなさいよ!」
「だ、だってこんな近くで見たら緊張しちゃって! 貴女が言ってよぉ」
「ええええええっと、エディルカ様、私達と、あの~~~~っ無理ぃ!」
「…………………………」

だから一体何なのだ。
顔を真っ赤にして、先程よりももっと大きな期待を込めた目でこちらを見上げながら、それでもなお言葉をうまく紡げずにもだえる女性達を、完全に冷め切った目で見やってから、エギエディルズは再びフィリミナを見つめた。
説明しろ、というこちらの意図を正確にくみ取ってくれた彼女は、小さな苦笑を返してくる。

「皆様、紅薔薇宮に行儀見習いとして上がられたご令嬢なのですって。大祭の夜には夜会があちこちで催されるでしょう? その際のダンスの練習相手になってほしいのだそうです」
「……ランセント夫人にか?」
「まあ、ご冗談を。もちろんエディルカ様、あなたに、ですわ」

徹底して他人行儀なフィリミナに対し、エギエディルズもわざと彼女のことを『フィリミナ』ではなく、『ランセント夫人』と呼んだ。だがそんな些細な抵抗など、彼女にとっては大したダメージにならなかったらしい。むしろ「ここで『フィリミナ』と呼ばずに『ランセント夫人』と呼んでくださりありがとうございます。それでこそ『エディルカ』様です」という副音声が彼女の微笑みの裏から聞こえてくるようだった。
よくできすぎた妻の姿に、エギエディルズはもう涙も出てこない。自分ばかりが彼女の一挙一動に踊らされているようで面白くない。
思わずむっすりとした表情を浮かべると、それをどう思ったのか、慌てたようにその行儀見習いとして城に上がったのだという女性陣が、エギエディルズを取り巻いた。

「あの、あの、そういうわけなのです!」
「青菖蒲宮の騎士様ともあれば、きっとダンスもお上手でしょう?」
「どうか私達にご教授くださいませ!」
「お仕事の邪魔はいたしませんわ、少し、少しでいいんですの」
「クランウェン殿下の護衛を終えられた後、そう、もちろん夜でも構いませんから! その後はぜひとも私の……」
「ちょっと貴女、何を言おうとしてるのよ!」
「うるさいわね、早い者勝ちよ!」

きゃあきゃあとかしましく騒ぎ立てる女性達の姿に、エギエディルズはこみ上げてきた溜息を飲み込んだ。
なるほど、そういうことか。“エディルカ”に夜会のためのダンスの練習相手を求めるとは、なかなか度胸がある女性陣である。
まあ本当に度胸があるならば一人で“エディルカ”に突撃しに来たのだろうが、流石にそこまでの勇気は出ずにこうして徒党を組んでフィリミナを介して頼みに来たのか。
“エディルカ”としてクランウェンのそばに付くようになってから、フィリミナには苦労をかけてばかりいることを改めて思い知らされる。自分が“純黒の魔法使いエギエディルズ”の姿でいたら、目の前の彼女達は、顔色を真っ青にして目を逸らすに違いないのに、こうして“エディルカ”のことは真っ赤な顔で期待を込めてまっすぐ見上げてくる。それを悪いことだとは思わない。『黒持ち』と呼ばれる魔法使いの中でも、最高峰とされるこの自分、『純黒』とはそういうものだ。幼い頃からそうだったのだから今更傷付くことはないし、腹を立てるまでもない。ただ、現金なものだな、とは、単純に思う。そしてだからこそ余計に、フィリミナという存在の奇跡を思い知らされる。
彼女ほど不思議な存在をエギエディルズは他に知らない。フィリミナは、どんな姿の自分でも、いつだってまっすぐに、優しく、あたたかく、そして何よりも甘やかな光を宿して見つめてくれるのだ。
その光を独り占めしたくて奮闘するエギエディルズのことを、他人は滑稽だと笑うのかもしれない。フィリミナはきっと「わたくしのかわいいあなたは、本当に仕方のないひとですこと」と苦笑するのだろう。その苦笑すらもいとおしくて、もっと見ていたくて、そうしてエギエディルズは滑稽なダンスを一人で踊る。どうしたらもっとフィリミナは笑ってくれるのだろうかと、それだけを祈り、願い、考えて。
ああ、そうだとも。いつだってエギエディルズは、フィリミナに踊らされてばかりいる。
だったら。

「――――――――――フィリミナ」

純黒の王宮筆頭魔法使いを滑稽に踊らせる、たった一つの呪文を口にする。
ごくごく小さな、ともすれば吐息にも等しいその呟きは、目の前の女性達には理解できなかったらしい。きょとんと瞳を瞬かせる彼女達の向こうで、驚いたようにフィリミナが大きく目を瞠る。
先程は『ランセント夫人』とフィリミナのことを呼んだエギエディルズが、あえて『フィリミナ』と名前で呼んだことに驚いたのだろう。戸惑いに揺れる彼女の視線を捕らえて、エギエディルズは小さく笑う。
目の前の女性達の顔色がますます真っ赤になり、ほうけたようにぽかんと口が開かれる。そんな彼女達を押し遣って、フィリミナの前に立ち、エギエディルズはワゴンに添えられていた彼女の手の一方を持ち上げる。そして自らの手を、彼女の腰へと回した。
ぎょっと更に目を見開いてこちらを見上げてくるフィリミナだけに見えるように片目を閉じてみせたエギエディルズは、そのまま彼女は廊下の真ん中へと優雅に、それでいて抵抗の一切を許さずに導く。
そして、いわゆるワルツの基本形、クローズドポジションでフィリミナと向かい合ったエギエディルズは、未だほうけ切ったままエギエディルズと、その腕の中に収められているフィリミナを見つめるばかりの女性達へと視線を向ける。

「個人レッスンのお誘いは光栄ですが、何分忙しい身の上でして。代わりに今、この場で見本をお見せしましょう」
「え? ちょ……っ!?」

エディ!? と今にも悲鳴を上げようとしたフィリミナの言葉を奪うように、タン、と床を踏み締める。
有無を言わせずに踏み始めたステップは三拍子。いち、に、さん。いち、に、さん。エギエディルズのマントがひるがえり、フィリミナのエプロンのリボンもまた宙を躍る。
誰かが溜息を吐くのが聞こえてきた。けれどそれが誰なのかを確認しようとは思わない。したいとも思えなかった。ただエギエディルズにとって大切なのは、この腕の中にフィリミナがいること、それだけに尽きる。
フィリミナはエギエディルズの腕からなんとか逃れようと慌てているようだったが、お構いなしに彼女の動きの一手先を奪うリードを続ければ、やがてもう逆らう気も失せてしまったのか、大人しくこちらの動きに身を任せてくれる。
「もう」と小さく呟く彼女に笑みをこぼして、タン、と床を踏む。いち、に、さん。いち、に、さん。足音で刻むリズムだけが頼りになるワルツだ。衣装だって、エギエディルズは憧憬を集める青菖蒲宮の騎士としての団服を身にまとっているものの、頭には本来の黒髪とはかけ離れた金髪のかつらを被っているし、フィリミナに至ってはドレスどころかお仕着せの侍女服である。大祭の夜に催される夜会のワルツとは比べるべくもないお粗末なワルツ。けれど、これだけ息の揃った完璧なワルツもそうそうないだろうとエギエディルズは思うのだ。
フィリミナは本来ワルツ――というか、ダンス全般のたぐいは得意ではないと自称する。けれど何一つ問題はない。フィリミナのダンスのパートナーはエギエディルズだけで、他には誰もいないのだから、エギエディルズがフィリミナの分まで完璧になり、彼女をフォローし、リードすればいいだけの話だ。
世界広しと言えど、この自分にそこまでさせる存在など、フィリミナ以外に誰もいない。
ほら、見てみるがいい。エギエディルズとフィリミナの、この場限りのワルツを見守る女性達は、うっとりとこちらに見惚れている。エギエディルズばかりではなく、その憧憬は、フィリミナにも確かに向けられているのだ。
自己評価がいまいち低い彼女は、その視線に気が付いている様子はない。ひとつひとつ、ステップを踏むのに必死になっているばかりだ。そんなに懸命にならなくたって、エギエディルズはフィリミナをフォローし切る自信があるし、そもそもワルツとは「いかに正確にステップを踏むか」ではなく「いかに楽しく踊るか」こそが重要とされるはずだ。そう教えてくれたのは、フィリミナだった。

「雛菊ばかりではなく、ミスミソウもお前に贈るべきだったな」
「……え?」

小さな呟きは、腕の中のフィリミナだけが聞き拾ってくれる。ステップを踏みながらもこちらを見上げて不思議そうに首を傾げるフィリミナに、エギエディルズは笑みを深めるだけに留めてそれ以上何も言わなかった。
ミスミソウ。その花言葉は『自信』、そして『信頼』。もっと自信を持てばいいのだと。もっと信頼してくれればいいのだと。そして一緒にまたワルツを踊ろう。そんな思いを込めて、ミスミソウを贈りたい。
今回の件が片付いたら、改めて用意するのもいいかもしれない。かつて雛菊を贈った時のように、手紙に花束を封じ込めて。

「ミスミソウと……それからアネモネあたりがいいか?」
「エディ……ルカ様? 何を仰って……!」

はた、とフィリミナの足が止まりそうになる。そこをすくい取るように彼女にターンさせてまたステップを踏ませると、先程よりも赤らんだ顔で彼女が睨み上げてきた。迫力なんてまるでない、かわいらしいばかりのそのかんばせに、危うくこの仮初の姿のまま口付けてしまいそうになったところをなんとか耐えた。
アネモネの花言葉は有名だ。愛の告白として用いられる花は薔薇が有名だが、アネモネもまた同様の意味を持つとは、少し花言葉をかじった者にはすぐに通じる話である。すなわちフィリミナにもすぐに伝わるというわけだ。
こちらを見つめる女性達が、こちらの会話にまでは意識を払っていない……というか、そこまでの余裕もなくうっとりと見惚れるばかりなのをいいことに、人目もはばからず好き勝手に語る“エディルカ”に、“ランセント夫人”はそろそろお怒りのようだ。

「アネモネならば、わたくしだってあなたに何度さしあげたいと思ったことでしょうか」
「……ほう? そうなのか?」
「ええ、紫色のアネモネを、何度贈り付けようと思ったことか!」

タン! と大きくフィリミナは足を踏み出して、エギエディルズの腕から逃れてくるりとターンを決める。そうして再びエギエディルズの腕の中に戻ってきてくれた彼女を受け止めつつも、エギエディルズは何も言えなかった。
紫のアネモネ。花言葉は、『あなたを信じて待つ』。
ぐっと言葉に詰まるこちらをじっと見上げてくるフィリミナは、眉尻をつり上げていた。責められているはずなのに、それを嬉しいと思ってしまったエギエディルズのその本音を聞けば、彼女はもっと怒ってしまう気がする。
だからこそ沈黙を選ぶエギエディルズに対し、やがてフィリミナの眉尻が下がる。諦めのにじむ、それでもなお甘い微笑みだった。

「幼い頃、梅がお似合いのあなたに、ヒペリカムをさしあげようかと思ったこともあります。ですが、ふふ、そんなものがなくても、あなたはご自分で勿忘草を見つけてくださいましたね。だからわたくし達はやはり、雛菊と酢漿草がいちばんだと思うのです」

その美貌に定評があり、『高潔』と『優美』をほしいままにしながらも、幼い頃のエギエディルズはそれでもなお孤独だったことを、フィリミナは知っていてくれる。そんな自分に、彼女は『悲しみは続かない』ことを教えようとしてくれていたのか。
今更知った事実に思わず足を止めそうになるけれど、そこを今度はフィリミナの方からフォローされてしまう。本当は足を止めて彼女を抱き締めたくてたまらないのに、『真実の愛』のありかを一緒に見つけてくれた彼女は、それでもなお『あなたとともに生きる』と言ってくれているのだ。
これで感動せずにいられる夫がどこにいるというのだろう!

「フィリミナ、俺は……」
「楽しそうなことをしているね?」

タタン! と、エギエディルズとフィリミナは同時にその場でたたらを踏んだ。きゃあ、と完全に観客となっていた女性陣が悲鳴じみた歓声を上げる。いいところで水を差してくれたいけ好かない余裕たっぷりの声音――――クランウェンだ。
慌ててフィリミナがエギエディルズの手に重ねていた自らの手を放し、いつの間にか少し離れた、フィリミナからしてみれば背後側の場所にたたずんでいたクランウェンに向かって、さっと身体ごと振り返って一礼する。
それを横目に、どうやらいつまで経っても執務室に戻ってこないフィリミナをわざわざ迎えに来てくださりやがったらしいクランウェンは笑みを深めてエギエディルズを見つめてきた。
エギエディルズ――“エディルカ”もまた、深く笑みを深めて一礼してみせる。女性陣もまた続けて慌てて一礼したかと思うと、逃げるように足早にこの場を立ち去っていった。
おやおや、とそんな彼女らを見送ったクランウェンは、頭を下げた状態のまま動かないエギエディルズとフィリミナの元まで歩み寄ってきたかと思うと、ふむ、と一つ頷いて見せた。

「お邪魔だったかな」
「いえ、助かりました」
「へえ?」
「あのままでは、私、“エディルカ・ヴィンス”は、“ランセント夫人”をこの場でかき抱いていたに違いありませんでしたから」
「なっ! エ、エディ……ルカ様!」
「仲がいいことだね。妬けてしまうな」

ははははは、とクランウェンは楽しそうに笑っている。エギエディルズ、ではなく“エディルカ”は、非常に珍しくも、彼に向かって穏やかに微笑んで頷いた。
そして顔を赤らめて慌てているのは、“ランセント夫人”ただ一人であったのである。
踊らされているのはどっちだろうな、と、エギエディルズがこっそり思ったことは、フィリミナには知られてはならない秘密なのだろう。

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