【とある数学者にとっての未解決問題1】

※このお話は、中村朱里がツイッターにて時折呟いている現パロ(仮)です。
※魔法のない現代において、エディが数学者、フィリミナが図書館司書であり、二人が幼馴染ではなく大人になってから出会ったという設定です。
※全体的にふわっとした設定なので、深く突っ込まない方向でお読みください。

***

某大学の研究室に若くして助教授として所属する数学者、エギエディルズ・フォン・ランセントには、近頃、気になる女がいる。
一般的に言う『気になる異性』と言えば、恋だの愛だの惚れただの腫れただの、そういう面倒くさくてくだらないことこの上ない感情ゆえに『気になる』とされるのだろう。老若男女を問わずに他者からそういうものを向けられる、どころか、浴びるようにほしいままにしてきたエギエディルズは、そういう感情を、知識としては知っている。
だがしかし、エギエディルズには自分のこの『気になる』感情が、そんな甘ったるくてむずがゆいものとはかけ離れている自信があった。
一数学者として、答えを一つに求めたがる習性を自分が持っていることは自覚があったエギエディルズは、その“気になる女”に対する『気になる』という感情を、そのままにはしておけなかった。
気になる、とは何だ。そんな曖昧な言葉一つでは説明できない感情が何たるかを自覚し、証明しなくてはならないという奇妙な使命感があった。

「……行くか」

紙面に数式を手慰みに紡いでいたボールペンをぽいと放り投げる。幼い頃から神童ぶりを発揮し、十代で海外の某大学を首席で卒業し、二十代という若さで母国の有名大学の助教授という座に就いた数学者、それがエギエディルズだ。
血の繋りという一点において実の両親、と呼ぶべき夫婦は、そんな自分を不気味がり、育児放棄してくれた。だが、その後エギエディルズを引き取ってくれた養父母は、すばらしい人間だった。エギエディルズが心から敬愛する本当の意味での“両親”に育てられたおかげで、自分は最低限のコミュニケーション能力を手に入れることはできたし、その結果、こうして職場においても個人的な研究室を得られるに至ったと言える。
「賢いだけでは世の中は渡っていけないからね」「私とエルネストのかわいい息子は今でも十分かわいいけれど、でも、いわゆる“かわいげ”ってのも世間は欲しがるものなのよ」と二人はかつて幼いエギエディルズに語ったものだ。
正直なところ「面倒だな」と思ったのは事実なのだが、敬愛する両親の言うことはいつだって正しいので、エギエディルズは粛々とその言葉を受け止めて、今日まで生きてきた。
話はずれたが、とにもかくにもエギエディルズはその処世術として身に着けた“かわいげ”を駆使して手に入れた自身のためだけの研究室を後にすることにした。常に手荷物は最低限に済ませるようにしているが、今日はそのいつもの“最低限”に加えて、三冊の本が加わっている。
大学のすぐそばに位置する大きな市立図書館で借りてきた本だ。三冊の本の内、二冊はわざわざ書庫から出してもらった古い学術書だが、もう一冊は違う。本来エギエディルズが手に取るはずもない、少女向けのライトノベルだ。

――こちら、おすすめです。たまにはこういうたぐいのものもいかがでしょうか。

そうにっこりと笑顔でエギエディルズにライトノベルを押し付けてきた女の声が耳朶によみがえる。例の“気になる女”だ。市立図書館で司書として働いているのだというあの女。
脳裏に焼き付いた笑顔から目を逸らし、三冊の本を適当に放置してあった手提げの紙袋の入れて、研究室を鍵を閉める。いつもと何一つ変わらないルーティンであるというのに、ざわりと胸が波立つのを感じる。
何が“気になる”だ。チッと思わず舌打ちがこぼれる。この“気になる”という感情を紐解けば、“腹立たしい”だとか“苛々する”だとか後はそう、“癇に障る”だとか言う感情がふさわしいような気がしてならない。
けれど同時に、そういうものではない、と冷静な自分がかぶりを振るものだから、結局エギエディルズは彼女に“気になる女”という看板を首からぶら下げてもらうより他はないのである。
ああまったくもって腹立たしく苛々する、なんて癇に障る女なのだろう。
思い出したくもない。ましてや、会いたいなんて、そんなこと思うはずがない。あり得ない。それなのに。

「…………」

それなのにこの足は、いつもよりも急ぎ足になって図書館へと向かうのだ。まるであの笑顔が早く見たい、早く会いたいと思っているかのように。
冗談ではなかった。急いでいるのは図書館で待っている書籍があるからだ。地方の図書館にしか所蔵されていない本を、わざわざ取り寄せてもらい、それがつい昨夜届いたのだと、何かとエギエディルズを贔屓してくれる図書館の館長から連絡が入ったから。それだけだ。それだけ。そう、それだけでしかない。
別に、あの女は今日はシフトが入っていないかもしれないと思うと、奇妙に、そして無性に、ただただ残念に思えてならないだとか。たとえいつも通りカウンターの向こうに座っていても、こちらのことなんて覚えていないかもしれないと思うと、これまた奇妙に、そして無性に、ただただ悔しく思えてならないだとか。
そんなことは、決して、決して! あり得ない。あってたまるものか。

「………………」

大学構内を抜けて図書館へと向かう道中、エギエディルズにはいつも通り自然と視線が集まる。憧憬、賛美、心酔、そして恋慕。どれもこれもうっとうしい熱視線だ。それらすべてをいつも通り完全かつ完璧に無視して、図書館へと足を急がせる。
ほんの十分も歩けば、通い慣れた図書館が目の前にそびえ立つ。なんだかやけに緊張して、不思議と足が竦むような思いだった。
馬鹿馬鹿しい。別にゲームにおける最終戦のボスに挑むわけでもあるまいに。
ただ自分は借りていた本を返し、予約していた本を取りに来ただけだ。それだけなのだから、と自分に言い聞かせ、いよいよいざ図書館へと足を踏み入れる。
電子書籍が一般化した世の中でも、こうして紙とインクの匂いに満ちた空間を、なんとなくエギエディルズは好ましく思っている。老若男女を問わない来館者達は、誰もが図書館におけるマナーを守って沈黙を選び、会話するにしてもささやく程度の声量で、そういうなんてことのない気遣いにあふれた図書館というものを、やはりエギエディルズは好ましく思うのだ。
相変わらず周囲からの視線は感じるが、大学から図書館に至るまでの道程ほど露骨なものなく、この程度なら気にするまでもない。というか、普段の露骨どころではない熱視線すら基本的に無視することに慣れ切っているエギエディルズにとってはどんな視線もそよ風程度の影響すら及ぼさず、胸にたたえた湖の水面を波立てることはない。
さて、まずはカウンターで本の返却だ。三冊分の本の重さなど大したものではないはずなのに、今日は何故だか特別その三冊――正確には、そのうちの一冊、もっとも軽量で手に取りやすいはずのライトノベルが、やたらと重く感じられる。我知らずごくりと息を呑みこんで、いざ、とカウンターに向かう。
玄関口のすぐそばに位置するカウンターにいるはずのあのいけ好かない女に、堂々とこのライトノベルを突き返してやる。
紙袋の持ち手をぎゅうと握り直し、目的の方向へと視線を向ける。

「……………………」

いない。つい先日、エギエディルズが来館した際には確かにそこに座っていたはずのあの女は不在で、別の司書がカウンターの向こうに座っている。他のカウンターを見ても同様だ。あの女の姿はない。視線を巡らせても、それらしき姿はない。
そのとき自分の心に湧いた感情を、なんと表現したらいいのだろう。知らず知らずのうちに身体を縛り付けていた緊張感から解き放たれ、肩から力が抜けた。ほうと安堵の息を吐きつつも、その安堵以上に胸を満たすのは、大きな落胆だった。
なんだこれは。意味が解らない。自分は何をこんなにも残念がっているというのだろう。まるでかつて「これは難題だぞ!」と言って差し出された数式が、想定以上に簡単なもので、ものの数分もかからずに解けてしまったときのようだ。
あの女はいない。そうか。なんだ。つまらない。自分でも驚くほどあっけなく緊張の糸をぷつりと切り、なぜだかこみ上げてくる溜息を飲み込みながら、今度こそカウンターへと向かう。
本日のカウンターの向こうの司書達は、年齢の違いこそあれ、偶然にも皆女性だった。エギエディルズの様子をつぶさに見ていた彼女達は、自分がそちらへ歩き出したことに気付くとにわか色目き立ち、期待を込めた目でこちらを見つめてくる。「こちらのカウンターへ来てください!」という声が聞こえてくるようで辟易としてしまう。
全員女性なら、あの女がその中に混じっていたって問題はないだろうに。どうして彼女はいないのだろう。ああ、つまらない。面白くない。腹立たしい。苛々する。つくづくなんて癇に障る女なのだろう――と、エギエディルズが歩きざまに紙袋の中から借りていた三冊の本を取り出そうとした、その時だった。

「お待たせしました。こちらのご本でお間違いないでしょうか?」
「!」

背後から聞こえてきた穏やかな声に、そんなつもりなど毛頭なかったはずだと言うのに、ぴたりと足が止まった。いいや、足ばかりではなく、世界そのものが停止したような、そんなあり得るはずもない、普段のエギエディルズが他者から聞けば「……立ったまま寝ているのか。よほど疲れているご様子ですね」と冷笑を浮かべてもおかしくない、そんな信じられない現象が起こった。
凍り付いたように硬直し、その場に立ち竦むエギエディルズの横を、エプロンを着けた一人の女が通り過ぎていく。図書館におけるマナーを守っているのだろう、走っている訳ではないが、待たせている人物のために急ぎ足にはなっている足取りだった。
彼女はカウンタのそばに立ってた老婦人の元に歩み寄ると、その手に持っていた本を確認するかのようにぱらぱらとめくり、一つ頷いてから老婦人に差し出した。

「お探しの全集になります。申し訳ございません、詩集の棚ではなく、糸を指す方の刺繍の棚に間違えて並べられておりまして」
「あらぁ、いいのよ。むしろよく見つかったわねぇ」
「詩集と刺繍の間違いは時折あるんです。ご自分で書棚に戻してくださる来館者さんが、その、たまに……。でも、無事に見つかって本当によかったですわ。お孫さんに読んでさしあげるのでしょう?」
「ふふ、ありがとうねぇ、お姉さん。そうなの、さっきも言ったけれど、孫が小学校で習ったらしくて、もっと読みたいって言うから……私も懐かしくなっちゃってね、ああ楽しみだわ」
「それは何よりです。お孫さんと楽しんでいただけますように。ではあちらで貸し出しのお手続きをお願いいたします」

老婦人が嬉しそうに微笑んで詩集の背を撫でるのを、その詩集を手渡した女――この図書館において司書として働く、先日エギエディルズにあろうことか少女向けのライトノベルをすすめるという暴挙をやらかしてくれた、エギエディルズにとっては現在“気になる女”である彼女もまた、嬉しそうに微笑んで頷いて見つめていた。
彼女は老婦人にカウンターに向かうよう促して、ほっと安堵の息を吐いて方から力を抜いた。そしてこちらを振り返る。ぎくりとエギエディルズの身体が強張る。まただ。またざわりと胸がざわつく。自分でも理解できない、初めての感覚だった。あえて言うならば、めったに出会えない数学における難題を前にしたときの感覚に似ているのかもしれない。
そうして、彼女の赤みの強い榛色の瞳が、そしてエギエディルズを捉え――――る、ことはなく。

「どうしましたか? 何か困ったことがあるのかしら?」

エギエディルズを綺麗にスルーした彼女の瞳は、彼女にとって斜め前にあたる新刊棚の前で立ち尽くしている、小学校に入学したばかりかと思われる少女へと向かった。
少女の元に歩み寄り、わざわざ腰を曲げて視線を合わせて問いかけてくれた女性の司書に安心したのだろう、泣きそうな顔を浮かべていた少女は「あの、あのね」とおずおずと口を開く。

「あのね、お姉ちゃん。あそこの掲示板で紹介してた、お姫様のお菓子の本が借りたいんだけどね、見つからないの」
「お姫様のお菓子……ああ、先週入荷したばかりの新刊ね。ちょっと調べてくるから、少し待っていてもらえますか?」

女がカウンターの向こうの書籍管理用のパソコンを指差すと、少女はこっくりと頷いた。その少女に女もまた微笑んで頷きを返し、カウンターの向こうに入るが早いか、パソコンのキーボードを弾く。
少女の言う『お姫様のお菓子の本』とやらについて、明確なタイトルも解らないというのに、女にはそれが何なのかきちんと解っていたらしい。彼女はすぐにまたカウンターから出てきて、少女の元へと急いだ。

「ごめんなさいね。ちょうど入荷してすぐに借りていかれた方がいらっしゃって、今は貸し出しができないの」
「……そっかぁ」
「でも、明日が返却期限だから、今予約していけば、明後日にはきっとあなたに貸し出しができるわ」
「そうなの!?」
「ええ。ご予約なさいますか?」
「うん! あのね、あたしね、ちゃんと明後日も図書館に来るね! 楽しみにしてるね!」
「ええ、読み終わったらわたくしにも感想を教えてくださいね」
「うん!」
「ふふふ、でもね、図書館では?」
「っ! しー、しなきゃいけませんってママが言ってた……。ごめんなさい」
「気を付けましょうね。じゃあご予約の手続きをしましょうか」

弾む足取りの少女を連れていった女は、カウンターに陣取る同僚に声をかけて席を譲ってもらい、少女と一緒になってパソコンを覗き込んでいる。小さな声で楽しそうに会話を続けながらてきぱきと予約の手続きを終えた。
ここからでははっきりとは聞こえないが、少女が一生懸命にさまざまなお気に入りの本について話すのを、女はひとつひとつ丁寧に聞き拾っては相槌を打っているようだった。その優しく穏やかな笑顔を気付けばじいと見つめている自分に、エギエディルズはようやく、本当にようやく、大変遅ればせながらにして気が付いた。
なんだこれは、と、ここ数日幾度となく繰り返してきた自問をまた繰り返す。
こう言っては失礼にあたるのだろうが、別にあんな女、取り立てて注目を集めるような女ではない。どこにでもいる普通の女だ。
簡単に髪を結い上げて、シンプル極まりないボートネックのトップスに、細身のパンツ。その上に着ている、この図書館におけるお仕着せのエプロンが一番の特徴と言えば特徴となる、とびぬけて美しいだとかかわいらしいとかいうわけでは決してない、普通の女。
メイクだって最低限で、せめてプチネックレスくらい着ければいいものを、と基本的に衣服やアクセサリーのたぐいに興味のないエギエディルズにすら思わせるほどに飾り気がない、ついでに色気もない、普通の女である。
エギエディルズに近付いてくる女性達は誰もが皆、めいっぱい着飾って、自分なりに一番美しい姿を目指している。そんな女性達と比べてあの女はどうだ。繰り返すが、飾り気もなければ色気もない。
それなのになぜだろう。どうしてなのだろう。なぜ、どうして自分は、こんなにも彼女の笑顔から、目を離せないのか。こちらの視線にちっとも気付く様子のない彼女が、どうしてこうも腹立たしく、苛々して、無性に癇に障って仕方がないのだろう。
こちらを見ればいいのに。早く気付けばいいのに。彼女は気付かない。これっぽっちも。忙しく業務にいそしむ彼女は、相変わらず立ち竦んだままのこちらにやはりさっぱり気付かないままだ。
こうなればこちらから行くしかない。無理やりにでも気付かせて、その瞳をこちらに向けさせるより他はない。再びぎゅうと紙袋の手提げを握り締めて、今度こそ一歩踏み出す。向かうのはもちろん、あの“気になる女”が座るカウンターだ。
他のカウンターなんて目もくれず、一直線に彼女の元へと急ぐ。そして、あと数メートル。エギエディルズの長い脚のコンパスからすれば、大股であと数歩、というところまで来たときだった。

「返却をお願いします!」

……その言葉を、口にしたのは、エギエディルズではなかった。本人にその気があったのかどうかは定かではないが、エギエディルズの前に割り込むように入ってきた青年が、“気になる女”のカウンターの前に立った。
どさりとカウンターに本を積み上げて、はきはきと弾む大声で青年はさらにその本を“気になる女”の方へと押し遣る。
その勢いに驚いたのか、女はわずかに目を瞠ったが、すぐに気を取り直したように「返却ですね」と頷いて、積み上げられている本のうちの一冊を手に取る。その彼女の手に、青年の手が伸びて重ねられる。女の瞳がますます瞠られて、それを見つめることしかできないエギエディルズの瞳もまた大きく瞠られた。
だがそんな女やこちらの反応など気付いていないのか、それとも最初から気にしていないのか、青年は相変わらず弾む声音でさらに続ける。

「あなたがすすめてくれた本、全部読みました! どれもすごく面白かったです!」
「さ、然様ですか。それはよかったで……」
「本当にどれも僕の好みぴったりで! 僕達、気が合いますね」
「え、ええ、ええと」
「どうでしょう、お姉さん……いえ、アディナさん! お仕事が終わったら、僕とお茶でもいかがですか? これ、僕の連絡先です! アディナさんの連絡先も教えてくれませんか?」
「あ、あの、そういう私的なやりとりは、規定でご遠慮させていただいておりまして」
「つれないなぁ。そんな真面目なところも素敵ですが……」

カウンター越しに女の手を自らの方へと引き寄せて、青年はやはり相も変わらず弾んだ声音であれこれと続けている。
どうやらあの女は口説かれているらしいが、それにしてもあの青年、随分と常識がないと言うか……平たく言えばなんとなく“人間として関わり合いになりたくない人種”の臭いがすごい。女の同僚である他の司書達も、様子のおかしい青年に「これはまずいのではないか」と気付いたのだろう。慌てたように揃って司書室へと入っていく。
「館長を呼んできましょ!」「アディナさん、ちょっと待っていてね!」とエギエディルズの元まで届くほどはっきりと彼女達は言っていたが、もっと彼女達の近くにいるはずの青年の耳には届いていないらしく、やはり相も変わらずああだこうだアレソレドレミと女の手を取ったまま薄っぺらい台詞を吐き出し続けている。大概やばい人種であるとエギエディルズも悟らざるを得ない。あれはやばい。
そしてそんな青年に絡まれている女……アディナ、と呼ばれた女の状況は、極めてまずいと言っても過言ではないだろう。エギエディルズの視線の先で、誰の許可を得たつもりなのか、べたべたべたべた女の手に触れ、なんならもう撫でさする勢いでその手に連絡先が書かれているのであろうメモを握り込まそうとしている青年。

「…………………………」

ぶちぃっ!!!!
どこかで何かがものすさまじい勢いで確かにぶっちぎられる音を、エギエディルズははっきりと聞いた。

「失礼」
「は? なに……うわっ!?」
「きゃっ!?」

自身が気付いた時には既に、エギエディルズの身体は動いていた。大股で二歩。トン、と青年の肩を叩く。自らのアピールタイムを邪魔されたことに気分を害したらしい青年が、険悪な表情で振り返ってくるが、その瞬間、おろそかになった彼の足元を、エギエディルズの長い脚がさりげなくすくい上げる。
青年は、自分が何をされたのかも理解できないまま、なすすべなくその場にストンッ! と勢いよく尻餅をついた。女もまた驚いたように声を上げるが、構うことなく彼女と青年の間に割り込むようにして、カウンターを背後にして、エギエディルズは座り込んだままこちらを呆然と見上げてくる青年を睥睨……もとい、見下ろした。

「大丈夫か? 後続が詰まっていたから声をかけさえてもらったんだが……すまない、驚かせてしまったな」

我ながら寒々しいほどに白々しい言いぶりだった。珍しくもその自他ともに認める白皙の美貌に笑みを浮かべて、いかにも親切ぶって手を差し伸べてやると、青年はぽかんと大口を開けた間抜け面を見る見るうちに真っ赤に染めて、「大丈夫だ!」と言い捨てて、慌てて立ち上がるが早いか玄関へと走り去っていった。どこまでも図書館におけるマナーのなっていない青年だった。
それを見送って、改めて背後を振り返ると、こちらはこちらで驚きに固まっている女が一人。
呆然とこちらを見上げてくる彼女の手は、かすかに震えている。その手を取って握り締めたいという衝動が降って湧いてきたが、それでは先程の青年とまったく同じだ。理性を総動員させてエギエディルズは自らの手を抑え込み、そして代わりにそっと薄い唇を開く。

「……大丈夫か?」

先程、青年にかけた台詞とそれは同じものであったけれど、そこに込められた響きはまったく異なるものだった。確かな気遣いに気付いたのだろう、女の強張っていたかんばせがようやく緩み、ほうと息を吐いてから、彼女はぺこりと頭を下げてきた。

「はい、ありがとうございます。助かりました、ランセント先生」
「!」

彼女の、せいぜいリップクリーム程度しか塗られていないであろう、淡い色の唇から、謝礼とともに、思ってもみない呼び名が飛び出した。“ランセント先生”とは、天才数学者として国内外に名を馳せるエギエディルズにとっては聞き慣れた呼び名だった。そう、聞き慣れているはずなのに、目の前の女の口から出たその響きは、まるでエギエディルズが知らないもののように聞こえてきた。
鉄壁の無表情と名高く、表情らしい表情と言えば氷よりも冷たい冷笑ばかりだと恐れられるエギエディルズにしては非常に珍しく、驚きをあらわに目を瞠るこちらに、女も自らの発言に気付いたのだろう。あ、と、ばかりに自らの口を押えてから、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「不躾に申し訳ございません。その、先日ランセント先生がいらしたときには存じ上げなかったのですが……あの後、同僚に先生のことを教えていただきまして。大学の先生ともあろうお方に、前回は、大変差し出がましい口を利いてしまいました。今更ですが、お詫びいたします」
「い、いや……別に、構わない。その、この、お前がすすめてくれた本も……まあ、悪くなかった」
「!」

自分でも驚くほどぎこちなくなっている自覚はあったが、自覚はあってもどう修正することもできずに、エギエディルズは動揺に震える手を駆使して紙袋から借りていた本を三冊取り出す。一番上に、目の前の女がすすめてくれたライトノベルを乗せて、トン、と指先でその表紙を叩くと、女は目を瞠った。そしてそのかんばせに、ふわりと春風が吹きかけられたときのように、やわらかく笑みが刻まれる。
そのさまにただ見惚れ……そう、ただただ見惚れるしかできないこちらに気付かないまま、彼女はこちらを見上げて、嬉しそうに口を開いた。

「まさか読んでくださるなんて……。ふふ、こちら、少女向けのファンタジー小説なのですが、大人の女性や、男性にも人気のある小説なんです。その、ランセント先生のお好みではないとは今ならばもう本当に解るのですが……改めまして、本当に前回は失礼な真似をしてしまい申し訳ございません」

深々と頭を下げてくる彼女に、エギエディルズはますますどうしたらいいのか解らなくなる。
そもそもの、彼女との出会いは、つい先日、エギエディルズがこの図書館を訪れたときのことだった。
人の少ない時間を見計らって訪れた図書館にて、いつも通り専門書の貸し出しを頼もうとしたところ、カウンターには目の前の彼女しかいなかった。人の少ない時間だからこそ、他の職員は休憩にでも出かけていたのだろう。彼女に貸出のために本を差し出したのだが、彼女はこっそり読んでいる小説に夢中な様子で、こちらに気付いてはくれなかった。
勤務時間中に堂々とサボりか、と感心しつつ、なんとなく気が向いて、彼女がこちらに気付くのを待つことにした。
小説のページをめくるたびに、くるくると彼女の表情は移り変わった。嬉しげになったり、悲しげになったり、悔しげになったり。素直に感情をあらわにしているその表情から不思議と目が離せなくて――そして、気付いたら口を開いていた。「そんなに面白いのか」と。
こちらのその台詞にようやくエギエディルズに気付いてくれたらしい彼女は、慌てて持っていた小説を閉じて貸し出しの手続きを始めた。彼女が読むのをやめてわきに置いた本は、華やかなイラストが表紙の、少女向けのライトノベル。なんとなくそのタイトルを眺めていたら、不意を突いて「何が面白いのか解らないな」という台詞が自然と口をついて出た。
エギエディルズは読書が好きだ。面白いとされる本は大体手を出すが、仕事を趣味としているせいだろうか、結局数学の専門書や関連書ばかりを好むばかりで、幼少期からこれまで、そういうライトノベルというものには手を出してこなかった。ファンタジーなんてくだらない夢物語だとすら思っている部分が、自分の中には確かにある。先程、目の前の彼女はそんな物語に一喜一憂していたけれど、そこまでさせる何かが、彼女が読んでいたライトノベルの中にあるのか、はなはだ疑問だった。
そんなつもりはなかったが、どことなく馬鹿にするような響きが、「何が面白いのか解らないな」という台詞の中に込められてしまったことに、目の前の女は気付いたのだろう。彼女は笑った。穏やかでありながらも有無を言わせない圧力を感じさせる笑顔で、エギエディルズが借りる予定の数学の専門書二冊の上に、そのライトノベルを乗せてきた。
どういうつもりかと久々に驚くエギエディルズに、彼女はにっこりと笑ってその三冊をまとめてエギエディルズへと差し出してきた。

――こちら、おすすめです。たまにはこういうたぐいのものもいかがでしょうか。

というわけである。
こんなもの読むはずがないだろうと、突き返すことは簡単なはずだった。けれど彼女の笑顔に押し切られ、気付けば三冊、ライトノベルも一緒に持ってエギエディルズは図書館を後にする羽目になったのだ。
最初は本当に腹が立った。なんだあの言いぶりは。まるで幼く聞き分けのない子供に対して言い聞かせるかのように、司書としての役割を超えて押し付けてくるなんて。いい迷惑だ。巨大なお世話だ。なんて生意気で、腹立たしく、苛立たしく、癇に障る女なのか。
それから二日で、エギエディルズはさくさくと二冊の専門書を読み終えた。問題は残る一冊、ライトノベルである。
読まずにさっさと返却してもよかったが、あの女に「あら、この程度の本も読めないのですね」と思われるのも非常に癪で、なかば意地になって結局読む羽目になった。ものの三十分ほどで読み終えてしまえる話だった。正直なことを言ってしまえば、面白い、とは思わなかった。だが、このページであの女はこういう顔をしていた。あのページであの女はああいう顔をしていた。なぜだかそう思い返されてならず、気付けば彼女の笑顔が脳裏に焼き付いていて。
結果として三日もかからずに三冊とも読み終えてしまったのだから、さっさと返却すればいいものを、このライトノベルを手放してしまったら、あの女との唯一の、細い蜘蛛の糸のようなつながりも断ち切られてしまうような気がして、結局貸し出し期間ギリギリいっぱいまで手元に置き続け、最終的に図書館館長からの取り寄せ依頼していた書籍が届いたという報せにようやく背を押されて、ここまで来る運びになった。
それが本日であり、今のこの状況である。

「読んでくださってありがとうございます、ランセント先生」
「いや……」

大したことじゃない、と、やはりらしくもなくぼそぼそと続けると、女はそれでも嬉しそうに笑みを深めてくれた。
その笑顔が見ていられない。なんだこれは。顔が熱くてたまらない。
けれどこのままでは、彼女とはこれっきりになってしまう。何か。何か話を続けなくては。
何か、なにか……とうろうろと視線をさまよわせたエギエディルズは、そうして、女の手元にある、彼女がすすめてくれたライトノベルの表紙に描かれた、物語の主人公である令嬢と目が合った。

「……俺は」
「はい?」
「その、俺は、こういうたぐいの本に詳しくないから。先程の男のようで、気分を悪くしたらすまないが……その、また、おすすめを教えてくれないか?」
「!」

ぱちり、と、女のまるみを帯びた瞳が大きく瞬く。失敗だったか、と自らの発言をエギエディルズが悔やむよりも先に、女はますます嬉しそうに笑った。きらりと瞳が星のように輝く。
そのきらめきに目を奪われるエギエディルズに気付かないまま、彼女は「でしたら」と弾む声で、隣に置かれているワゴンから一冊の本を取り出した。サイズからしてライトノベルだと思われるそれを、彼女はそっと差し出してくれる。

「こちらはいかがでしょう。先程のお話のスピンオフですの」
「……ありがたく、借りていく」
「ふふふふ、こちらこそありがとうございます。よければ感想を教えてくださいね」
「…………ああ。じゃあ、また」
「はい。またのご利用をお待ちしております」

貸し出し手続きを終えたその新たなライトノベルを受け取って、エギエディルズはくるりと踵を返した。
社交辞令であるとは解っている。そんなことは痛いほど解っているし、これでは本当に先程のとんだ勘違い野郎と同じではないか、という自覚はある。それなのにエギエディルズは、『また』があることが、嬉しいと。それこそ、走り出したくなるくらいに嬉しいと、そう、思えてならないのだ。
急ぎ足で図書館を後にして、大学の研究室へと急ぐ。
なんて腹立たしい女だと思った。考えるたびに苛々する、なんて癇に障る女かと。
けれど今はどうだ。彼女の笑顔が、声が、いまだ頭から離れない。どんな学会発表の前でも凪いでいるこの心が荒れ狂っている。ランセント先生、と彼女は自分のことを呼んだ。呼んでくれた。
けれど叶うならば、名前で呼んでほしい。そして自分もまた、彼女のことを名前で呼びたい。ああそうだ。
出会ってからというもの、何も知らない、顔と職業しか知らない彼女のことばかりを考えている。
なんだこれは。なんだこれは。これは、これではまるで、自分が、彼女のことを――……!

「~~~~っ!!」

バンッ! と勢いよく、ようやくたどり着いた大学の研究室の扉を開け放ち、その中に飛び込む。同じくバンッ! とまたその扉を閉めて、一人きりになってから、エギエディルズはその場にずるずると座り込んだ。
顔が熱い。こんな顔、誰にも見せられない。
これではまるで、ではない。そうだ。そういうことなのだ。自分は。エギエディルズ・フォン・ランセントは、あの、アディナという姓であるらしい図書館司書の女に、恋に、落ちたのだ。
ああ、ああ、なんてことだろう!
どんな数式よりも難しい、自分ひとりでは決して解決できない問題を前にして、エギエディルズは顔を真っ赤にして座り込んだまま、頭を抱えたのだった。


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