【The Butterfly Dream】

だれかに、呼ばれている。
その幼くも穏やかな、気遣いにあふれた呼び声に、エギエディルズは重くて仕方のないまぶたを、ようやくゆっくりと持ち上げた。降り注ぐ日の光が眩しくて、再び目を閉じそうになる。
だが、その金色の光を遮るようにして目の前に立ち、こちらの顔を覗き込んでいる少女の姿に、我知らずカッと目を見開く。その勢いのままに、ベンチの背もたれに預けていた身体を思い切り起こすと、「きゃっ!?」と小さな悲鳴が上がった。
しまった、驚かせるつもりはなかったのに。そう思ってももう遅い。怒らせてしまっただろうか。嫌われてしまっただろうか。こんな些細なことで怒ったり嫌ったりするような相手ではないということくらい解っているつもりなのに、それでも不安がつきまとう。結果として黙りこくるしかない。
そんなエギエディルズの前で、「ああ驚いた」とほうと溜息を吐いた少女は、気を取り直すようににこりと笑った。

「エギエディルズ様、おはようございます」
「おは、よう」

ぎこちなくあいさつを返すと、少女は安堵したように笑みを深める。
エギエディルズ。それは間違いなく自分の名前だ。敬愛してやまない養父が、何も持っていなかった自分に初めてくれたもの。目の前の少女が呼んでくれるその名前の響きが、気付けば特別になっていた。

「……フィリミナ」
「はい?」

呼びかけると、なにかしら、とでも言いたげに、少女――フィリミナ・ヴィア・アディナは小首を傾げた。その記憶の中の彼女と寸分違わぬ幼い姿に、ああ、と、ようやく納得する。
これは夢だ。幼い頃の夢。
本来の、つまりは現実の自分も、そしてフィリミナも、とうに成人を迎えている。自分達の関係は、幼馴染というばかりではなく、既に夫婦と呼ばれるそれだ。だからこれは夢。それも、まだ出会ったばかりの頃の、フィリミナが自分のことを『エディ』ではなく、『エギエディルズ様』と呼んでいた時代。幼馴染とすら呼べず、せいぜい顔見知りとしか呼べなかった頃の記憶だ。
そうと自覚した瞬間に、エギエディルズは、自分が幼い自分から引き剥がされる感覚を覚えた。ふと気付けば、幼い自分がアディナ邸の中庭のベンチに座り、その正面に同じく幼いフィリミナが佇んでいるという二人の姿を、ただ見つめていた。
二人がこちらに気付く様子はない。当たり前だ。これは、最早過ぎ去った過去の記憶なのだから。
エギエディルズの視線の先で、フィリミナが心配そうに『エギエディルズ』の顔を覗き込む。

「ごめんなさい、遅くなってしまって。お身体は冷えてはいませんか?」
「べ、つに、平気だ。居眠りしていたのは俺なんだから」
「ならいいのですけれど……えっと、その、エギ、エ、んんっ、エギエディルズ様、体調が悪くなったらすぐに仰ってくださいましね」
「……ああ」

こっくりと頷く『エギエディルズ』のことを、フィリミナはなおも心配そうに見つめてきていたが、少年がそれ以上何も語るつもりがないことを悟ると、納得したのか、はたまた諦めたのか、どちらかは解らないがとりあえずその隣に腰掛けてくれた。
そしてアディナ邸の書庫から持ってきたらしい分厚い魔導書を膝の上で開き、『エギエディルズ』に笑いかけた。一冊の本をともに読むには、つまりはそれだけ距離が近くなければならないわけで、『エギエディルズ』の無表情がますます凍りついたように動かなくなる。
自分で言うのも何だが、一丁前に緊張しているらしい。
フィリミナはそんな『エギエディルズ』に気付いているのだろう。わざわざ指摘することはなく、努めて穏やかに魔導書に綴られた魔法言語を、指でなぞりながら読み上げ始める。そうすればすぐに『エギエディルズ』の緊張はほどけてしまって、その思考は魔導書の中へと飛び込んでしまう。
じっと懸命に魔法言語を目で追いかける『エギエディルズ』が気付かないところで、フィリミナは小さく笑いつつも、そしらぬ顔で魔法言語をその小さな唇から紡ぐ。
幼い二人のやりとりに、変わらないな、と、エギエディルズは小さく笑った。昔からフィリミナは、エギエディルズとの距離感を掴むのがとても上手だった。飛び抜けて高い魔力を持って生まれた証である、この純黒と呼ばれる漆黒の髪。畏怖と憧憬、嫌悪と忌避を招くこの黒髪を、フィリミナは出会ったときからちっとも恐れることはなく、エギエディルズのことをただの少年として扱ってくれた。
フィリミナの前では、いつだってエギエディルズは、ただの少年で、ただの男なのだ。
ただし、現状――目の前の『エギエディルズ』は、その意味に、まだ気付いてはいない。この時点で気付いていたら、また何か変わったのだろうかと考えても、仕方のないことだろう。
とはいえ、どうせこれは夢でしかないのだから、せっかくだ。『エギエディルズ』の元まで歩み寄って、アドバイスの一つや二つ、その耳元でささやいてやるのもいいかもしれない。なるほどなるほど、なかなか妙案である気がする。
そうだとも、せっかくだ。ここで『エギエディルズ』がエギエディルズのアドバイスに従って〝男〟を見せたら、フィリミナはエギエディルズの知らない表情を見せてくれるのではなかろうか。
なにせ、この時代、自分はあまり情緒が発達しておらず、言葉を必要最低限以下しか扱えなかった。だからこそ余計に、当時から大人びていたフィリミナは、エギエディルズのことを、実弟であるフェルナンと似たようなものだと思っていたように思う。だからこそ余計に、あの義弟は、当時からエギエディルズに事あるごとに噛み付いてきたのだ。「姉上は僕の姉上なんだからな!!」と怒鳴りつけられた回数は、両手両足の指の数をとうに超えている。
と、話がずれた。
相変わらず目の前では、フィリミナが魔導書を読み上げ、『エギエディルズ』が熱心にその響きに耳を傾けている。こうして見ると、本当に、驚くほど二人の距離は近い。夫婦となった現在ですら、これほど近くになることなどそうそうないのではなかろうか。
そう思うとやはりなんだか無性にもったいないことをした気になって、エギエディルズはいよいよ足を踏み出した。少年少女が一切こちらに気付く様子がないのをいいことに、遠慮なく二人の元まで歩み寄ったエギエディルズは、とりあえずベンチの背後へと回った。
フィリミナの朗読は続く。『エギエディルズ』は、時折頷きを返す程度で、それ以上の反応はない。せめてまともな相槌くらい打てばいいものを、と、エギエディルズは自分のことながら呆れ果てた。
そしてだからこそ、やはりアドバイスをしてやらなくては、と、一つ頷く。身体をかがめ、フィリミナの反対側から『エギエディルズ』の耳元に唇を寄せる。

――隣を見てみろ。

一言だけ。それで十分だった。よくよく考えてみれば、姿かたちに気付かないのだから、声に気付くはずがない。アドバイスなどと言っても、この声が少年に届くはずもないのではないか、と、エギエディルズは遅れて気が付いた。
しかし、そこは夢。夢とはときに不思議なことが起こるものだ。エギエディルズの〝アドバイス〟に、ぴくりと『エギエディルズ』の肩が震える。フィリミナは気付かない。『エギエディルズ』が、いかにも恐る恐る、魔導書から、隣へと視線を持ち上げる。そうして朝焼け色の瞳に映る、間近にあるフィリミナの優しい微笑みが浮かぶ横顔に、『エギエディルズ』は。

「ッ!」
「えっ?」

『エギエディルズ』は、声なき声を上げた。流石に異変に気付いたらしいフィリミナがそちらへと顔を向けると、少年は、思い切り、それこそ弾かれるようにしてのけぞった。
本当に完全に、フィリミナとの距離感に気づいていなかったらしい。
そのまま『エギエディルズ』は転がるようにしてベンチからどさっと落ちる。フィリミナの瞳がまんまるになり、きょとんと何度もその瞳が瞬くのを、エギエディルズは上から、『エギエディルズ』は下から、それぞれ見つめる。

「え、えっと、エギエディルズ、様?」

そうっとかけられた気遣わしげな呼びかけに対し、一体どう答えるのが正解だったのか。生憎、ことの次第を見守っていたエギエディルズには解らなかった。
エギエディルズに解らないのだから、幼い『エギエディルズ』に解るはずもない。
いくら距離感に驚いたとはいえ、我ながらなんて情けないのかと幼い自分の不甲斐なさに頭を抱えるエギエディルズをよそに、少年の、白磁のような肌が、みるみるうちに薄紅に染まっていく。もちろん地面の上に尻もちをついたままで。
繰り返そう。情けない。
エギエディルズがそう思うのだから、『エギエディルズ』だって同じことを思っているのだろう。ただその情けなさというものがどういうものなのかを理解し、表現できるほど、少年はまだ〝こころ〟というものを自分のものにできていなかったのだ。
だからこそただただ呆然と地面に座り込んでいることしかできない『エギエディルズ』と、そんな情けない自分を見下ろすことしかできないエギエディルズの耳に、ぷっと、吹き出す声が届く。

「ふ……っ! ふふ、ふふふふふっ!」

フィリミナだ。魔導書を取り落としそうな勢いで、腹を抱えて笑っている。いつもの穏やかで大人びた、柔らかな笑みとは違う。ただただ面白くて仕方がないとでも言いたげな、年相応の、少女の、弾けるような笑顔である。
自分が笑われているのだと、『エギエディルズ』は気付いたのだろう。ますますその顔が赤くなる。けれど、フィリミナが初めて見せてくれた、何一つ取り繕わない明るい笑顔から目が離せず、じいと見入ることしかできずにいる。
そんな少年の視線をどう思ったのか。フィリミナは笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を拭って、魔導書を膝からベンチの上へと移動させ、そうして立ち上がる。

「笑ってしまってごめんなさい、エ、エギ、エギエディルズ様」

そう言えば、この頃、フィリミナは〝エギエディルズ〟という名前を、ずいぶんと言いにくそうにしていたものだ。改めてそのことを思い出して懐かしくなるエギエディルズをよそに、フィリミナは『エギエディルズ』に手を差し伸べる。

「さ、どうぞ。続きを読みましょう?」

細く、柔らかく、小さな手だ。その手を掴んでいいのかと戸惑い恐れる『エギエディルズ』は、ほんの一瞬だけ手を伸ばしかけ、そしてすぐに引っ込めようとする。けれどそれよりも先に、フィリミナの手が『エギエディルズ』の手を掴んだ。あたたかい手だった。確かなぬくもりがそこにあることを、自分がその手に触れたわけでもないというのに、何故だかエギエディルズは感じ取る。
きゅっと優しく握られた手に硬直する『エギエディルズ』を引っ張り上げたフィリミナは、その場に立ち尽くすことしかできない少年の衣服についた土をぱたぱたと払ってくれる。
同い年なのにまた弟扱いされているようで、どうにも情けなく、そして同時に悔しくなる。
けれどやはりそういう感情を、『エギエディルズ』はまだうまく噛み砕くことも、ましてや消化することもできない。知らず知らずのうちに唇を噛み締める『エギエディルズ』に気付かず、フィリミナは先にベンチに腰掛ける。
立ちすくんだままちっとも動こうとしない少年を見上げ、少女は瞳を瞬かせた。

「エギエディルズ、様?」

どうなさいまして? と首を傾げるフィリミナに対してできることはと言えば、結局、すすめられるままにその隣に腰を下ろすことだけ。今まではそれでよかったのに、何故だかこのときはそれだけでは物足りなくて。
その意味も知らずに、『エギエディルズ』は、大人しくフィリミナの隣に腰を下ろす。先程よりも、その距離は開いていた。先程までは膝がくっつきそうなくらいにくっついていたくせに。我ながらなんとまあ解りやすいのだろう。
再び呆れるエギエディルズを後目に、そうしてまた魔導書の朗読が始まった。

ぱらりとページがめくられる。同時に、目の前の光景もまた移り変わった。

先程までよりも幾分か成長した少女と少年が、やはり相変わらずアディナ邸の中庭に位置するベンチで、魔導書を読み合っている。
長い夢だな、とぼんやりと思うエギエディルズの視線の先で、魔導書を覗き込んでいる少年少女の歳の頃は、ちょうど八歳くらいだろうか。いつものように朗読するフィリミナの声音には、どことなく張りがないように思えた。そう思ったのはエギエディルズだけではなく、そろそろ情緒というものを覚えつつあった『エギエディルズ』も同様であったようで、ちらりちらりと、幾度となくフィリミナのことを横目で窺っている。
だから、気になるなら聞けばいいだろう。
そう幼い自分に突っ込みを入れずにいられない。こんなにもかつての自分は情けなかったのか。いくら夢であるとはいえ、それにしてもこれは酷い。我ながら酷すぎる。
仕方ない、ここは再びアドバイスをするべきところだろう。そう結論付けて、エギエディルズは再び少年少女の元に歩み寄り、『エギエディルズ』に耳打ちする。

――訊かなくては解らないぞ。

フィリミナは昔から隠し事がうまかった。彼女は、隠すと決めたことを、なかなか暴かせてはくれなかった。それは現実における現在でも変わらないが、今、この夢の中ならばと。
そんなエギエディルズの願いが届いたのだろうか。エギエディルズのアドバイスに従ってか、それともただの偶然なのか、『エギエディルズ』はフィリミナに、「何かあったのか」と短く問いかけた。フィリミナは驚いたように目を瞠る。まさか『エギエディルズ』に問われるとは思っていなかったらしい。

「いえ、別になんでもないのですよ、エディ」
「嘘だ」
「……あなたはなんでもお見通しなのですね」

この頃にはフィリミナは、自分のことをエディと呼ぶようになっていた。養父からもらった大切な名前をわざわざ愛称にするなんて、当初は考えられもしなかったのに、いつしか自分から彼女に「エディでいい」と提案した。
嬉しそうに〝エディ〟と呼ばれるたびに、なんとも言いがたい不思議な感覚に包まれたものだ。それは決して不快なものではなく、何故だかとても心地よくて、だからこそ余計に不思議で仕方なくて。
フィリミナとの距離が縮まった気がして、気付けば彼女に対して自分から話しかけ、問いかけるようになっていた。
今回もそういうわけだ。悩みがあるのならば、打ち明けてほしかった。他の誰でもなく、この自分に。それとも悩みを打ち明けられないほど自分は頼りないだろうかという気持ちを込めて『エギエディルズ』がフィリミナを見つめると、彼女は小さく苦笑して「あなたには敵いません」と口を開く。

「わたくしに、婚約のお話が来たのですって。お父様が教えてくださいましたの」
「……!」

その言葉に、ガツンと頭を殴られたかのような衝撃を受けた。ぽかんと口を開けて固まる『エギエディルズ』の、なんて間抜けなことだろう。もう少し取り繕えばいいものを、と、エギエディルズは溜息を吐く。もちろんそれは音にはならず、『エギエディルズ』もフィリミナも気付かない。
八歳児らしからぬ物憂げな表情でうつむくフィリミナに、『エギエディルズ』は固まったままだ。ああ、そうだ、こういうことがあったな。そうエギエディルズは思い出す。
代々王宮仕えの魔導書司官の名を襲名してきたアディナ家は、一般的に良家の貴族とされており、縁故を結びたがる貴族は多い。その八歳の子女ともあれば、こういう話が持ち上がっても何ら不思議なことはない。
しかし当時の『エギエディルズ』はそれを知らず、ただ婚約者というものがいずれ結婚する相手であるという認識くらいしかなく、だからこそ衝撃を受けずにはいられなかったのだ。

「フィリミナは、その婚約を、了承したのか?」
「そんなまさか! わたくしにはまだ早いと思いますとお父様にお伝えしました。さいわい、お父様もその通りだと仰り、お断りしてくださったのですが……」

そこまで聞いて、ようやく『エギエディルズ』は肩から力を抜いた。よかった。素直にそう思う。もしもフィリミナが、婚約なんてしたら、自分は……自分は、なんだと言うのだろう。彼女が自ら婚約したいと言い出したら、それを止める権利もすべも、『エギエディルズ』は持たないのだ。
そのことに驚くほどの衝撃を再び受ける少年に、エギエディルズは、これまた再びなんて情けないのかと頭を抱えた。
なんというか、ここまでとは思わなかった。自分はこんなにもままならない子供だったのか。養父であるエルネストはもとより、長く付き合いを重ねてくれた上に妻とまでなってくれたフィリミナには本当に頭が上げられない。
ついついじっとりとエギエディルズは『エギエディルズ』を睨みつける。もちろん気付かれない。
黙りこくっている『エギエディルズ』をどう思ったのか、フィリミナが気を取り直すように「さて」と改めて魔導書を開いた。

「もう済んだお話ですから。それより、続きを読みましょう」
「……ああ」

ぱらり。ページがめくられる。そしてまた場面が移り変わっていく。

今度はベンチにいるのは『エギエディルズ』だけだ。また少し成長して、おそらく九歳といった頃合いだろう。ベンチに腰掛けて待つ相手は、言うまでもフィリミナだ。

「エディ!」

長い夢だ、と、また思うエギエディルズの横を、『エギエディルズ』と同じく九歳ほどと思われるフィリミナが駆けていく。その両手が抱えるのは、分厚い魔導書だった。
見事な赤の装丁のそれが何たるかに気付いた瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。
あれ。あの魔導書。あれは。
ぐちゃぐちゃに掻き乱される心をなんとか宥めて、フィリミナの後を追おうとする。けれど足は動かない。やっとの思いで一歩踏み出しても、目の前に透明な壁が現れたようにそれ以上前へと進めなくなる。
魔法で破壊しようにも、魔力を集めることができない。そうこうしている間に、フィリミナは『エギエディルズ』に赤い魔導書を手渡し、ともにそのページをめくり始める。そうして少年少女の目に映ったのは、美しき焔の獣。見てみたいと無邪気に笑うフィリミナに、『エギエディルズ』は。

――やめろ!

エギエディルズは叫んだ。やめろ。やめてくれ。それ以上はいけない。そう叫ばずにはいられなかった。
目の前の壁に拳を打ち付ける。けれどやはりフィリミナは、『エギエディルズ』は、こちらには気付かない。
そして、そして。

――やめてくれ!

血を吐くようにエギエディルズが叫んだ瞬間、文字通り世界が停止した。肩で息をしながら目の前の壁に縋り付くエギエディルズの方へと、くるりと幼い朝焼け色の瞳が向けられる。
ぎくりと肩を揺らすエギエディルズに対し、赤い魔導書を抱えた『エギエディルズ』は首を傾げた。

「なぜ?」

短い問いかけ。
息を呑むエギエディルズをまっすぐに見上げて、『エギエディルズ』は続ける。
「なぜ、やめなくてはいけないんだ?」

どうして空は青いのかと問いかけてくるような、頑是ない声音だった。
何故も何もない。やめなくてはいけないに決まっている。そうしなければ、このままその魔導書で焔の高位精霊を召喚すれば、フィリミナは。フィリミナが。
そう言いたいのに、声が出ない。一切の音が発せられない。
けれどそれでも諦め切れずに目の前の壁に拳を叩きつけると、そんなエギエディルズを静かに見つめる『エギエディルズ』は、今度は逆の方向に首を傾げる。

「でも、こうすれば、フィリミナには俺しかいなくなる。フィリミナを好きになるやつはたくさんいるからこうしなきゃ。だって俺にはフィリミナしかいないから。だからこうするんだ」

それは違う。違うんだ。そんな方法では結局フィリミナは自分を見てくれない。確かにきっかけにはなったけれど、あくまでもきっかけだ。本当の意味で結ばれることができたのは、互いの心をさらけ出したからこそだ。
だから、だから、頼むからやめてくれ。
そう願いすがるエギエディルズを、『エギエディルズ』はやはり静かに見つめてくる。ここまできてようやく、自身の言葉が『自分』に届かないことにやっと気付く。止めなくてはいけないのに、それなのに。
そうしてその場に膝をつき、エギエディルズは両手で顔を覆った。見たくなかった。フィリミナが傷付くところなんて。そしてそれ以上に、自分がフィリミナを傷付けるところなんて。

ああ、ああ、だれか、だれか、じぶんを、おれをーー……

「――――ほんとうにばかなひと」

弾かれたように顔を上げると、そこには壁の向こうにいたはずの、幼いフィリミナがいた。穏やかに優しく微笑むその姿に、呆然と見惚れるエギエディルズの額に、フィリミナはそっと口付ける。
柔らかく、あたたかかった。
そして彼女は、そうするのが当たり前のように踵を返し、『エギエディルズ』の元まで駆けていく。
「エディ、いきましょう」

一緒に、と、言外に、それでも確かに続ける甘やかな響きとともに、彼女は、『エギエディルズ』に手を差し伸べる。『エギエディルズ』の顔が、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪む。そうして二人は、手を取り合って、そして。


「……エディ、もう、エディったら」


その遠くも近い呼び声に、エギエディルズは重くて仕方のないまぶたを、ようやくゆっくりと持ち上げた。降り注ぐ日の光が眩しくて、再び目を閉じそうになる。
だが、その金色の光を遮るようにして目の前に立ち、こちらの顔を覗き込んでいる唯一無二の妻の姿に、エギエディルズはほうと我知らず溜息を吐いた。

「フィリミナ」
「はい、エディ。ごきげんよう。もう、こんなところでお昼寝なんて。姫様とのお茶会に間に合わなくなってしまいましてよ」

わたくし達の集まりに参加すると仰ったのはご自分でしょうにと、ぷりぷりとフィリミナは肩を怒らせる。そんな仕草すら愛らしくて、つい目を細めた。
ああそうだ、茶会。近頃、隙を見つけては頻繁にフィリミナを呼び出して独占するクレメンティーネ姫に、そろそろ貸し出し期間は終了だと告げるつもりで参加を表明した茶会が今日。まだ時間があるからとランセント家別邸の中庭で休んでいたら、そのまま自分はすっかり寝入ってしまったらしい。
最近の疲れが溜まっていたのかもしれないと思いつつ、ぼんやりと視線をさまよわせていると、フィリミナがふいに心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。

「どうなさいましたの? 悪い夢でもごらんに?」
「……いや」

夢。夢を、見たのか。よくわからない。
ただ、もし見たのだとしたら、そう悪い夢でもなかったような気がする。よくわからないけれど。
そうらしくもなくぼうっとしたままでいるこちらのことを、しばしやはり心配そうにフィリミナは見つめてきていたが、やがて諦めたらしく、気を取り直すように、エギエディルズに手を差し伸べて笑った。

「エディ、行きましょう」

――――ほんとうにばかなひと。

は、と、息を呑む。そしてエギエディルズは、今度こそフィリミナのその手を取った。
思いの外強い力に驚く彼女を、そのまま引き寄せ、膝の上に乗せて抱き締める。きゃあ!? という悲鳴が上がった。

「もう、ちょっと、エディ、エディ?」
「少しだけ。少しだけだ」

少しだけでいいから、このままで。
そうフィリミナに顔を埋めると、諦めとも呆れともつかない溜息とともに、フィリミナは笑った。

「わたくしのかわいいあなたは、本当に甘えたさんですこと」

その台詞はすなわち受容だ。
そっと背に回された手に安堵しながら、更にフィリミナを抱き締める腕に力を込める。苦しいだろうに、フィリミナは文句ひとつ言わずに、大人しくされるがままになってくれている。
甘やかな匂いが鼻をくすぐる。空は抜けるような青。エギエディルズは、もう悪夢を見ることはない。

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