【ランウェイは歩かせない】

そも、エギエディルズの妻であるフィリミナ・フォン・ランセントは、自らが身にまとう衣服について、重きを置いていない節がある。いいや、“節がある”どころか、完全に“置いていない”と断じてしまっても過言ではないほどに、自身の衣服に対して興味がない。
妙齢の女性らしく、必要に迫られればそれ相応に、審美眼の厳しいエギエディルズから見ても十分すぎるほど魅力的に着飾ってくれるものの、普段の姿はまあ一言で言ってしまえば『地味』。後にも先にもこの一言に尽きるのである。
そのくせ自分以外の周囲の人間、それこそ夫であるエギエディルズや、“大切なおともだち”と互いに誇らしげに呼び合う仲である姫君、元より親しくしていた友人であるご令嬢達、世間でちやほやと騒がれる騎士団員達などの衣装に対しては「なんて素敵なのかしら!」「もっとああした方が……」「いいえ、こうした方が……」「あのお色もお似合いですけれど、こちらのお色もきっとお似合いだわ」などとあれこれうっとりと呟くのである。訳が解らない。
フィリミナなりにこだわりや美学があるのだろうが、そのこだわりや美学というものが彼女本人に発揮されるのかと問われると決してそんなことはない。やはり訳が解らない。
あえて言うなれば、自分自身の衣装に対しては、普段は機能美こそを至上としているのではないだろうか。だからこそ普段着は地味で飾り気のないドレスばかりなのだろう。
エギエディルズとフィリミナが結婚し、自宅として定めたランセント家別邸は使用人を雇っておらず、結果、屋敷の女主人であるフィリミナが家事を一手に引き受けることとなり、となれば世間の貴族の令嬢や夫人がまとうような確かに美しいが動きやすさからは程遠く飾り立てられたドレスなど無用の長物だ。それは解る。だがフィリミナは、結婚前から機能美を重視したドレスばかりだった。
彼女の母であるフィオーラや、乳母であるシュゼットが、「もっと飾らせてくれればいいのに……」「幼い頃からちっともお変わりになられませんね……」と溜息を吐く程度には、フィリミナの衣装に対するこだわりや美学は徹底されていたように思う。
そんなところも含めて、というか、何もかもすべてひっくるめて彼女に恋し、彼女を愛しているのだから、エギエディルズとしては今更フィリミナの服装について何か物申すことなどない――――ない、はずだったのだが。

「……フィリミナ、その格好は」
「あ、あらエディ! まあまあ、どうなさいましたの、お帰りはもっと遅くなられるはずじゃ……!」

ここはランセント家別邸における夫婦の寝室である。目の前には見るからに慌てふためき、顔を赤らめさせて視線をさまよわせる妻、フィリミナがいる。
既に夜のとばりは落ちて、外はとっぷりと暗く、獣すら寝静まる真夜中だ。
今夜は仕事の山が来て特別に遅くなるから、先に寝ているように。そうフィリミナには日中に速達を届けていた。
エギエディルズのその想定は正しく、帰宅は月が天頂に座すのを待ってからになったのだが、フィリミナの想定はどうやらこちらの想定以上に遅い帰宅――それこそ午前様となるとでも思っていたらしい。今までの自分の所業を思い返してみるとそう思われても仕方ないだけのことをしてきた自覚はある。
それについては本当に今更ながら申し訳なく思うのだが、それはそれとして、ちょっと待ってほしい。
目の前のフィリミナの、慌てふためくこの様子。長く伸ばされた髪をそのまま背に流した彼女の、華奢な肢体を包んでいるのは。

「……俺の夜着か?」
「…………………………はい。お借りしております」

顔を赤らめるどころかもはや茹で上げたタコのように真っ赤にして、フィリミナはこっくりと頷いてくれた。そのはずみで、彼女が一枚だけ羽織っているらしいエギエディルズの夜着が肩からずり落ちた。
「きゃあ!」とかわいらしい悲鳴を上げて、フィリミナは慌てて肩に夜着を引き上げるが、今度はその拍子に反対側の肩が覗く。「きゃああ!?」と重ねて上がるこれまたかわいらしい悲鳴。
あわあわあわあわとなんとかしようとしているのは伝わってくるが、動揺し切っているフィリミナは自分で自分の格好が理解できていないらしく、このままでは彼女が羽織っているエギエディルズの夜着の上衣は、すっとーん! と彼女の足元に落ちてしまうだろう。
それはそれで見たいか見たくないかと問われればまあエギエディルズは沈黙せざるを得ないのだが、顔を真っ赤にしてなんとか自らの格好を整えようとしている妻の姿があまりにもかわいく……いや、かわいそうだったので、エギエディルズは手を伸ばして夜着を整えてやった。
エギエディルズとフィリミナでは背丈も肩幅も何もかも異なり、改めて妻の身体の頼りなさを思い知らされる。
エギエディルズの夜着の上衣だけをまとったフィリミナの姿は、普段の彼女の夜着姿以上に、それこそ比べ物にならないくらいに目の毒だ。脳裏で自称友人の騎士団長が「彼シャツこそ男のロマン! それがグッとクるってヤツだ!!」と親指を立ててきたので、そのまま脳裏で殴っておいた。お前に言われて納得したくない。納得してしまったけれども。

「それで、どうしてまた俺の夜着を? 自分のものはどうした?」
「その、近頃雨天続きで、なかなかお洗濯ができなかったでしょう? 今日は久々に晴れたので、一度に全部洗ってしまったら、思いのほか乾かなくって……」

お借りしました、と、小さく続けるフィリミナに、なるほど、と頷きを返す。
そういうことならば話は解る。フィリミナはちらちらとこちらを申し訳なさそうに見上げてくるが、別に勝手に夜着を使われようが怒るはずがない。フィリミナには、フィリミナだからこそ、そういうことを許している。むしろいいものを見せてもらったと思っている――とは、口が裂けても言えないが。たぶん口にしたらほぼ間違いなくこの寝室から追い出されてしまうだろう。
そうでなくても、フィリミナは現在の自身の姿、すなわちいわゆる“彼シャツ”状態をエギエディルズに見られたことを恥じているようなのだ。彼女の算段では、エギエディルズが帰宅するギリギリまで待って、自身の夜着に着替える予定だったのだろう。これは悪いことをしてしまったかもしれない。こちらとしてはそれはもうとてもとてもとっても役得ではあるが。
ここで、エギエディルズが魔法を行使して、フィリミナ曰く『なかなか乾かない』彼女の夜着のたぐいをすべて乾かしてやることは実にたやすいことだ。
だがしかし、そうやってもっとエギエディルズのことを頼ってくれればいいのに、誰よりも頼ってほしい相手である妻は、エギエディルズが魔法を使うことをよしとしてくれない。「わたくしは『あなたの魔法』とではなく、『あなた』と結婚したんですもの」と笑う彼女の前では、稀代と謳われる純黒の魔法使いもかたなしだ。
だからこそ余計に愛しさが募り、彼女に何度でも恋に落ちてしまう。今だってそうだ。きっと今一番エギエディルズの魔法を必要としているはずなのに、彼女はそれを求めはせず、ただただ恥ずかしがるばかりでいてくれる。そんなフィリミナ・フォン・ランセントに、エギエディルズはまた恋に落ちる。
何度惚れ直させれば彼女は気が済むのだろう。何度惚れ直せば自分は気が済むのだろう。
きっと生涯解けることのない疑問を胸に秘めつつ、ふむ、とエギエディルズは頷いた。
このまま彼シャツ状態の妻を堪能していたい気持ちはとてつもなく大きかったが、もはや涙目になりつつある彼女をこのままにしておくのは望ましくない。
ならば、と、エギエディルズはじいとフィリミナを捕らえ続けていた視線をようやく動かして、そのまま部屋の片隅に鎮座する自身のクローゼットへと向けた。
その視線に気付いたのだろう、フィリミナはやはり顔を赤くしたままこちらの視線を追いかける。

「エディ?」

どうかしたのかと問いかけてくる声に応えず、その代わりにパチンと指を鳴らす。その音に導かれてやってきた風精が宙を舞い、クローゼットの扉を開け放す。扉の向こうの下段、普段妻であるフィリミナですら触れないエギエディルズだけの私的な引き出しが音もなく引き出される。
ひょい、ひょい、と指で宙に魔法式を紡ぐと、風精がにっこりと頷いて、その透ける手で引き出しから薄紙の包みを取り出し、それをエギエディルズの元へと運んでくる。
片手でそれを抱き留めるように受け取れば、役割を終えた風精はそのままするりと消え失せた。

「あ、あの、エディ? それは一体……」
「お前にだ」
「え?」
「開けてみろ」

薄紙の包みをフィリミナに押し付けるように渡すと、戸惑いながらも受け取ってくれた妻は、首を傾げながらその場でそろそろと薄紙の包みを解いていく。
そしてはらりとその場にその薄紙を落として中身を腕に抱いた彼女は、赤身の強い榛の瞳を大きく見開いた。

「夜着、ですか?」

フィリミナの腕に抱かれているのは、その台詞通り、一着の女性用の夜着だった。
すべらかな光沢のある生地は絹。胸元を愛らしいリボンが飾る、可憐な夜着だ。
ぱちぱちと何度も瞳を瞬かせて、しげしげとそれを見つめるフィリミナに、エギエディルズはなんだかだんだん口の中が乾いていくのを感じた。

「ああ。その、なんだ。お前は豪奢なドレスなどはさほど喜ばないだろう? だがせっかく俺はお前の夫でいられるのだから、その、何か特別な服を贈れたらと思ってな。ドレスは何着贈っても構わないだろうが、夜着を贈る機会はそうないだろう。たまたま以前町の仕立て屋で見つけて……その、似合う、だろう、と」

まるで言い訳をしているようだと、他人事のようにエギエディルズは思った。
この夜着を購入したのは、結婚したばかりのころのことだった。結婚したという事実すら秘匿していたころ、王宮から帰る途中、本当にたまたま見つけたものだ。
夜着すら……というか、夜着だからこそなおさら飾り気のないものをまとっていた妻に対して、つい、「これを着てくれたら」と期待してしまい、気付いたら購入していた。購入したはいいものの、すぐに「いくら夫婦とはいえ、夜着をいきなり贈るのはどうなのか」という自問にぶち当たり、その答えが見つからないまま、今夜まで隠し通す羽目になっていたものだ。
新婚で浮かれていたとはいえ、よくもまあこの自分が恥ずかしげもなく妻のための夜着なんてものを買えたものだと今ならば思う。そんな気恥ずかしさもあって隠されていたそれが、ようやく日の目、もとい月の目を浴びることとなったと言える。
安堵と焦燥、矛盾する感情に板挟みになるエギエディルズの前で、フィリミナは夜着を抱いたまま、何も言わない。
そのほっそりとした手が、絹地の上をすべっていく。
そうして彼女は、ふふ、と、小さく笑った。

「“おひめさま”の夜着みたいね」

それはエギエディルズに対してではなく、フィリミナ自身に対して向けられたような呟きだった。その声音に乗せられた、どことなく弾むようなリズムに、エギエディルズはこの夜着を今この場で贈ったことが決して間違いではなかったことを知る。
誰にともなく心の底からほっと安堵するエギエディルズを、手元の夜着ばかりを見つめていたフィリミナが見上げてきた。確かに喜びのにじむその瞳にぐっと胸が詰まるのを感じていると、彼女は気恥ずかしそうに笑みを深めて、「着てみてもいいですか?」と言ってくれた。
言葉が出てこない。代わりにこくこくと何度も頷くと、「じゃああちらを向いていてくださいな」とそっと胸を押され、促されるままにくるりと後ろを向く。
さらり、と衣擦れの音がやたらと大きく鼓膜を震わせる。鼓動の音がうるさい。たった一枚、夜着を着替えるだけの時間が、なんだかどうしようもなく長く感じられて、エギエディルズは逸る心を抑えるためにそっと拳を握り締めた。
そして。

「いかがでしょうか、エディ」

その言葉に、ようやく背後を振り向く。そして息を呑んだ。
先程とは異なる意味合いで顔を赤く染めたフィリミナがまとう、可憐な夜着。想像通り、いいや、想像以上に、彼女にとてもよく似合っていた。
『いかが』も何もない。『良い』以外の感想などあるはずがない。フィリミナにつられてこちらまで顔が赤くなっていくのを感じる。
言葉にせずともそんなこちらの思いは十分すぎるほど伝わってくれたらしい。照れ笑いを深めるフィリミナは、そわそわと落ち着かない様子で「こんな素敵な夜着で眠るなんてもったいないです」なんて呟いてくれている。ただひたすらにかわいい。
けれど、これで終わりと思われたら困るのだ。

「フィリミナ。座れ」
「え? は、はい!」

ベッドサイドの椅子を引き寄せて示すと、不思議そうにきょとんと瞳を瞬かせてから、妻はキリッと表情を引き締めてすぐに椅子に腰を下ろしてくれた。
ピンと伸びた背筋についつい笑みをこぼしつつ、その前に回り込み、腰を折って彼女の髪をまとめて引き寄せる。

「あ、あの……?」
「いいから」

ヘアブラシを鏡台から持ってきてもよかったが、せっかくなのだからこのやわらかな髪の感触を楽しみたい。
慎重に、丁寧に、長い髪にそっと指を通す。至近距離にあるフィリミナの顔の赤みがまた強くなったが、お互い様だ。彼女から香る甘い匂いに酔ってしまいそうになりながらも、エギエディルズはやはり慎重に、丁寧に、フィリミナの長い髪を編んでいく。
そうして編み上がった三つ編みを、彼女が今身にまとっている夜着と揃いの髪飾りでまとめてから、ようやくエギエディルズは折っていた腰の姿勢を正した。

「ほら、完成だ」
「あら、まあ」

自らの三つ編みを見下ろして、フィリミナはまた笑みを深めてくれた。あまりにも本当に嬉しそうに笑ってくれるものだから、エギエディルズは自覚している以上に浮かれている自分に遅ればせながらにして気が付いた。
手を差し伸べると、照れながらも重ねられる、エギエディルズのそれよりも細く小さな左手。
その薬指を飾る銀の指輪は、エギエディルズの左手の薬指にも存在する。かつてフィリミナが望んでくれたこの指輪の意味を問うたことはない。けれどわざわざ問いかけなくても、不思議と解るような気がしてならないのだ。
フィリミナがこの指輪を付けて出席した茶会から広まったのだという王都でのうわさ。『揃いの指輪を左手の薬指に着けると、二人の愛は永遠になる』とかなんとか、まことしやかにささやかれているのだとか。
エギエディルズはそのうわさを信じてはいない。こんな指輪などなくても、フィリミナとの間に存在する想いと絆は確かなものであるという自信があるからだ。それがどれだけ傲慢な自信なのかという自覚はある。慢心するものではなくてよ、と、フィリミナについてはエギエディルズのことをどこまでも信用していないあの白銀の姫君は柳眉をひそめることだろう。
けれどそれでも、と思うのだ。ただの銀の指輪に、この想いの丈が測れるはずがないだろうと。そしてだからこそ、とも思う。この指輪が本当の意味で『ただの銀の指輪』であると思えるようになったら、そのときこそこの想いが永遠であると確信してもいいだろうと。
その日が来るのが楽しみでもあり、少しだけ怖くもあるのだから、恋だの愛だのといったものは本当に厄介で謎めいている。こんな感覚なんて知らなかった。いつだってエギエディルズに“はじめて”を教えてくれるのはフィリミナだ。

「物語の姫君のようだな」

立ち上がったフィリミナの、その重ねられた手をひょいと持ち上げて、そっとその左手の薬指の指輪の上に口付ける。
あらあら、とフィリミナはやはり顔を赤らめながら笑ってくれる。その笑顔にただただ途方もなく愛しさが募っていくのを感じていると、ふふふ、とフィリミナは鈴を転がすように声をもらす。

「以前、姫様の夜会のために頂いたドレスももちろんとても嬉しかったですけれど、こちらの夜着も、とても嬉しいです。ありがとうございます、エディ」

まるでとっておきのドレスを身にまとっているかのように、そっと裾を持ち上げてみせるフィリミナは、エギエディルズにとっては間違いなく誰よりも美しく輝ける“姫君”の姿だった。
ならば自分は“王子様”だろうか。それこそまさかだ。せいぜい姫君をさらう悪役の“魔法使い”がいいところだろう。
たとえ姫君に魔法をかけて彼女を美しく飾り立てたとしても、それは王子様のためではなく、魔法使い自身のためであり、そのまま美しい彼女を誰に見せることもなく隠してしまうに違いない。それがこの“魔法使い”である。
けれどきっとこの姫君はそんな魔法使いを許し、受け入れ、選んでしまうのだろう。なんてかわいそうな姫君なのだろう。こんなにも彼女をかわいそうだと思うのに、もう魔法使いは姫君のこの手を放してなんてやれない。諦めてもらうよりほかはない。
その代わり、きっと誰よりも倖せにしてみせる。一緒に倖せになってみせる。
その誓いの証が指輪だというのならば、喜んでこの戒めを受け入れようではないか。

「せっかくこんなにも素敵なんですもの。誰かに見せびらかしたい気分です」
「残念だが、それは叶えてやれないな」

このたおやかな姿を見つめることが許されるのは、後にも先にも自分ひとりで十分である。
あらあら、とフィリミナは眉尻を下げた。少しばかり不満がにじむそのこめかみに口付けると、もう、と彼女は唇を尖らせる。
その唇に自らの唇を寄せて、ちょんと重ねてから、エギエディルズは深く笑った。

「この夜着を見るのも、脱がすのも、その髪を乱すのも、俺だけの特権だ」

何せエギエディルズは、王子様ではなく悪い魔法使いなので。
普段聞かざることをほとんどしない妻が、珍しくも気乗りした様子で衣装を喜んでいる様子に水を差すのは少々気が咎めたが、こればかりは仕方がない。フィリミナが望んでくれるのならばいくらでも新しいドレスも夜着も捧げてみせるが、その代わり、その姿を堪能する権利は自分にあり、公表するか否かを決める権利もまた自分にある。

「俺だけの姫君、今宵はどんな魔法をかけてほしい?」

そっと耳元で問いかけると、その耳までまた真っ赤にして、フィリミナは「エディったら!」と悲鳴を上げた。
慌てて身を離そうとする彼女を両腕の中に閉じ込めて、エギエディルズは声を上げて笑ったのだった。

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