【大きい俺と小さいお前】

北部の村にて魔物の群れが出現。急ぎ赴き討伐せよ。
そんな指令がエギエディルズの元に降ったのは、つい先日の話である。
王宮付魔法使いが集う黒蓮宮、その代表を務めるこの自分が、いくら魔物相手であるとはいえ、王都を離れるなどあり得ない。王都や王宮に張った結界とて、エギエディルズが王都で暮らしているからこそ確かな保証が約束されているのだ。その件についてはどう説明してくれるつもりだと冷ややかに、政務を司る紫牡丹宮の上層部に物申したのは記憶に新しい。
だがそんなエギエディルズの抗議を受けた上層部は、飄々と「王宮筆頭魔法使いにして救世界の英雄の一人であるエギエディルズ・フォン・ランセントが赴くからこそ意味がある」のだとのたまった。
曰く、いくら魔王が討伐されたとはいえ、いまだ魔物の脅威ははびこっており、特に北部ではその傾向が顕著である。魔王存命時の被害が大きかった北部の村々の住人達は、また自分達が見放されるのではないかという不安を抱えている。だからこそ、本来王都に常駐すべき王宮筆頭魔法使いにして救世界の英雄の一人たるお前が
赴くことで、彼らの不安――もとい、不満を解消すべきなのだ、とのことである。英雄を求めるならば同じく魔王を討伐した青菖蒲宮の王宮騎士団長、アルヘルム・リックスの方が適任ではないか。北部の村々は魔物が身近であった分、黒持ちへの偏見が強い。純黒とすら呼ばれる自分が行くよりも、その人柄も折り紙付きである騎士団長の方がふさわしいはずだと更に主張したエギエディルズだったが、そのアルヘルム本人に、「北部は騎士団への不審も大きいんだよ」と言われてしまっては、流石にいくら冷徹非情と謳われるエギエディルズでも、それ以上何も言えなくなってしまった。
最初に魔王討伐に赴いた騎士団の精鋭部隊が、魔王軍の前に大敗を期したことは誰もが知る事実だからだ。その事実を誰よりも悔やみ、そして仲間の死を悲しんでいるアルヘルムに、「面倒をかけて悪い。どうか、頼む」と頭まで下げられてしまっては、流石の――そう、流石のエギエディルズも、何も言えないどころか、「……解った」と頷くより他はなかったのである。
まだまだ新婚と呼んでも差し支えない妻を残し、この北部へとやってきたのは、一昨日の話だ。
エギエディルズは、村長の邸宅において貸し与えられた客室にて、深く溜息を吐いた。初めてこの村に到着したときの村人達からの表面上の歓迎の裏には、この黒髪に対する畏怖と嫌悪が感じ取れた。慣れているので別段気にすることはない。それよりももっとずっとよっぽど気がかりだったのは、王都の屋敷に一人で残してきた妻、フィリミナのことだった。
出立まで散々渋るエギエディルズに、「大丈夫ですから。わたくしのことより、どうかご自分のことを心配なさってくださいまし。ご無事のお帰りを心待ちにしておりますから」と幾度となく繰り返してくれた挙句に、最終的に「ごきげんよう!」と元気よく玄関から追い出し……もとい、送り出してくれた彼女は、今頃どうしているだろうか。
朝と晩に、彼女のブレスレットの魔宝玉と、自身の杖の魔宝玉で、通信連絡を取ってはいるものの、フィリミナの様子はいつも通りで、ちっとも……そう、ちっっっとも、寂しそうな雰囲気は感じ取れない。ある意味でエギエディルズよりも淡白で、エギエディルズに言わせれば『薄情』とすら言える部分を持つフィリミナだから、ある程度覚悟はしていたのだが、それでも、あそこまであっさりした反応を見せつけられると、流石につらい。解りやすく言えば、凹む。エギエディルズは、本当は、こんなにも寂しいのに。こんなにも早く直接会いたくてたまらないのに。
今回の遠征は、当初の予定では一週間を予定していた。だがそんなにも王都を――ではなく、フィリミナを一人にしておける訳がない。彼女には三日で片付けてくると宣言してきた。そして実際、この北部の村にてエギエディルズは、到着したその日に群れる魔物の巣を発見し、生態系を壊さない程度にはびこる魔物を丁重に駆除させていただいた。その後は、今後同じことが起こった際への対策の村人達への指南と、想定外の迅速さで問題を解決したエギエディルズに対する村人達からのもてなしに費やされた。
もてなしてくれるよりも早く解放してくれる方がずっとありがたいのだが、共にやってきた部下達の手前、実際に口にすることはできず、大人しく歓待を受ける羽目になった。まったく面倒くさい。早くフィリミナに会いたい。そうして彼女の華奢な身体を抱き締めて、その甘い匂いを噛み締め、それから、それから……ああ、やはり早く帰りたい。
既に彼女には、明日帰還するという連絡を入れている。フィリミナは嬉しそうに笑ってくれた。「ご無理をなさらない程度に、早く帰ってきてくださいね」と気遣ってくれた。嬉しかった。とても。
だからこそやはり、やはり早く帰りたい。部下達を置いて一足先に転移魔法を駆使して帰ってしまおうかとすら思う。思うだけで実行に移せないのがこんなにも悔しい。

「……笑えないな」

まるで母を求める幼い子供だ。エギエディルズには母親がいたことがないので想像することしかできないが、きっと、こういう感じなのだろう。いやだがしかし、フィリミナの母性というものに癒されることがあるのは事実であるとは言え、エギエディルズが真実彼女に求めるのは母性などというものではなくもっと別のものだ。優しく包み込むような愛ばかりではなく、もっと身勝手でわがままで、どうしようもない、それでも手放せないものが欲しい。フィリミナもそう思ってくれたらいいのにとエギエディルズが願っていることを、きっと彼女は知らない。
そうしてエギエディルズは、再び溜息を吐いた。もうすぐ日が暮れる。奇異の視線に晒されるのが面倒くさくて、この部屋に閉じこもり続けていたせいか、らしくもなく気が滅入ってきたのかもしれない。人目を避けて散歩でもするか。ついでにフィリミナへの土産でも探すのもいいかもしれない。
そう結論づけて、エギエディルズは客室を後にした。
村は静かだ。いくら魔物の群れが一掃されたとはいえ、まだ油断は禁物だとエギエディルズが厳命したのが原因だろう。
どうせ明日は王都に帰るのだから、最後に見まわりもしておくか、と、エギエディルズは歩きながら視線をめぐらせる。

「……?」

その時だった。視界の片隅で、何かが動いた。
雛菊の群生だ。ささやかに愛らしく咲き誇るその花の群れは、派手な美しさはなくとも、エギエディルズの心を惹くに十分な理由を兼ね備えている。その花の一群がごそごそと、何やら揺れているではないか。
ねずみか、あるいはうさぎか。小動物でも隠れているのかと、なんとなくエギエディルズがその様子を見守っていると、やがて、ぴょこりと。小さな頭が、白い花弁の重なりの中から飛び出した。
――そしてエギエディルズは、本当に、本当に珍しく、心の底からの驚愕を味わう羽目になる。

「ああ、よかった。やっとでられましたわ」
「……」

聴き慣れた、優しく、穏やかなその声音。見開かれた朝焼け色の瞳が向ける視線の先で、〝それ〟は、自らのスカートの裾をぱたぱたとはたいた。
〝それ〟は、小さな存在だった。それこそ、手のひらの上に軽く収まってしまうに違いない大きさである。丁寧に結われた淡い亜麻色の髪は、雛菊の葉にあちこち引っかけてきたせいか、少々乱れていた。エギエディルズがどれだけ言っても贅沢をよしとしない彼女が好む通りの、動きやすさばかりを重視した、シンプルなそのドレス。そのドレスの裾を整える、小さな手。裾から覗く、これまた小さな靴。
そして、〝それ〟、もとい〝彼女〟は、赤みがかった榛色の瞳で、その場に呆然と立ち竦むエギエディルズを見上げた。

「ごきげんよう、おおきいエディ。わたくしはちいさいフィリミナです」
「…………」

昨夜、一昨日と、続けて睡眠を疎かにしたせいだろうか。エギエディルズは割と真剣に悩んだ。寝ぼけているにしては、あまりにもはっきりとしすぎている幻である。
フィリミナ会いたさに幻覚まで見るとは、いったい彼女はどこまで自分を狂わせれば気が済むのだろう。帰ったらその罪を甘く償ってもらわなくては……などと、エギエディルズが現実逃避している間に、〝彼女〟はちまちまと小さな足を動かして、そのエギエディルズの足元までやってきた。
そうして丸みを帯びた瞳がまたこちらを見上げてくる。

「……フィリミナ?」
「はい。なんでしょう、おおきいエディ」
「…………」

〝彼女〟は穏やかに微笑み、小首を傾げた。その優しい春風のような笑顔は、間違いなく、エギエディルズのたったひとりの妻と、まったく同じそれだ。
エギエディルズが屈んで手を差し出すと、〝彼女〟、もとい、自称『小さいフィリミナ』は、「しつれいいたします」と言いおいてから、ドレスの裾を楚々と持ち上げて、エギエディルズの手のひらの上に乗ってくれた。
花一輪の重さ程度しかない彼女を、そのまま視線の高さまで持ち上げる。

「ありがとうございます、おおきいエディ」
「……いや」

大したことなどしていないという意味を込めてかぶりを振れば、小さいフィリミナはぺこりと頭を下げて、エギエディルズの手のひらの上に腰を下ろす。うっかり口に放り込みたくなるくらいに愛らしかった。ぐっとその衝動を堪えて、エギエディルズは改めて小さいフィリミナを観察する。
本人の主張通り、彼女はどこからどう見てもフィリミナだった。その大きさ以外。それは見てくればかりの問題ではなく、気配や雰囲気、そしてエギエディルズのことを「大きいエディ」と呼ぶ、その響きに至るまで、すべてがすべて、間違いなくフィリミナのもの。
いたずら好きの妖精の変化という訳でもなさそうだ。どういうことだと知らず知らずのうちに眉をひそめれば、すぐにそれに気付いた小さいフィリミナは、「まあこわいおかお」と苦笑した。

「わたくしのことをあやしまれておいでですのね」
「……すまない」
「あやまらないでくださいまし。とうぜんのことですもの」

訳知り顔で頷いた小さいフィリミナは、そうして、じぃっとエギエディルズを見上げ、「でも」と続けた。

「わたくしはほんとうに、ちいさいフィリミナですのよ。あなたのことがしんぱいで、がまんできなくなって、ついやってきてしまいましたの」
「そう、か」
「はい」

ごめいわくでしたか? と、大層不安そうにこちらの様子を窺ってくる小さいフィリミナのその表情に、エギエディルズは自分の敗北を悟った。
無理だ。勝てない。この小さいフィリミナがどれだけ不思議な存在であろうとも関係ない。彼女はフィリミナだ。ならば最初から、エギエディルズが勝てる訳がなかったのだ。
我ながらあまりの単純さについ笑ってしまう。小さいフィリミナもまた、ほっとしたように笑ってくれた。

「それではおおきいエディ」
「何だ?」
「わたくし、おなかがすきました」

唐突な自己申告である。
予想外の台詞にエギエディルズがぱちりと瞳を瞬かせると、小さいフィリミナは顔を赤くして、いかにも気恥ずかしげに、「だってごはんをたべるよりもさきに、あなたにあわなくてはいけないとおもったんですもの」とぼそぼそと呟いている。
なるほど、食事よりも自分を優先してくれたと言うならば、確かに仕方がない。とはいえここでうっかり人目につくわけにはいかないので、エギエディルズは小さいフィリミナを手のひらの上に丁寧に乗せたまま、村のはずれまで移動して、ほとんど打ち捨てられたような状態になっている、朽ちかけたベンチに腰かけた。

「ちょっと待て……ああ、そうだ、村長夫人が用意してくれたものがあったな」

小さいフィリミナを隣に下ろし、エギエディルズはパチンと指を鳴らした。すると次の瞬間、膝の上に、小ぶりのバスケットが現れる。その中には、昼に焼かれたばかりのパンが詰まっており、小麦の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
小腹が空いたらどうぞ、と村長夫人が用意してくれたものだ。この村において貸し与えられている客室のデスクの上に置きっぱなしになっていたものを、この場に転移させただけなのだが、小さいフィリミナはしきりに「やっぱりおおきいエディはすごいですね」と何度も頷いて、小さな手で拍手してくれる。
その小さな手に、パンをちぎって渡してやると、小さいフィリミナは嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ありがとうございます。じゃあ、おおきいエディもどうぞ?」
「いや、俺は……」
「あら、あーんするのがおこのみでした? おまかせくださいな。はい、おおきいエディ、あーん」

自らに渡された小さなパンのかけらを、更に小さくちぎって、小さいフィリミナは差し出してくる。とはいえ、身長差……というか、全体的な大きさの差を埋められるはずがない。わざわざ立ち上がって、「んーっ!」と、一生懸命手を伸ばして差し出してくる小さいフィリミナの姿に、エギエディルズは本日二度目の敗北を期した。
座ったままできる限り身をかがめて口を開けると、小さいフィリミナがパンのかけらを放り込んでくれた。あまりにも小さすぎて、ほとんど味は感じられなかったが、小麦の風味が確かに口の中に広がり、忘れていたはずの空腹を思い出す。
せっかくだし自分も食べるか、と、姿勢を正してバスケットからパンを取り出す。そのまま黙々と口に運び始めれば、小さいフィリミナは大層嬉しそうに頷いて、自らも小さなパンのかけらを食べ始めた。
そういえば、この村に来てからというもの、王都へ早く帰るため、そればかりを考えて、すっかり食事をおろそかにしていたことを思い出した。
村長夫人がわざわざパンを用意してくれたのは、そんなエギエディルズに対するあたたかい気遣いだったのかもしれない。王宮筆頭魔法使い様のご機嫌取り、ではなく。そう思うと、既に冷めているはずのパンに、なんとなくぬくもりが感じられるような気がした。
うまい、と、素直に思う。もちろんフィリミナが用意してくれる食事には比べるべくもないけれど。
そうして気付けば、バスケットの中のパンを食べ切ってしまった。

「おなかはいっぱいになりましたか?」
「ああ。……すまない、お前の分まで食べてしまった」
「わたくしはじゅうぶんいただきました。それより、おなかがいっぱいになったなら、こんどはおひるねですね」
「もう夕暮れだぞ」
「すこしくらいよいではありませんか」

ぴとり、と、エギエディルズの膝に寄り添ってくる小さいフィリミナに、エギエディルズは本人三度目の敗北を期した。
小さなぬくもりがこんなにもあたたかく、そして愛しい。こちらの膝に小さな体を預けて目を閉じる小さいフィリミナを見ていたら、確かに、自分まで眠くなってきてしまった。
少しくらいならば、いいか。そう結論づけて、エギエディルズもまた目を閉じる。そうして驚くほどすんなりと、この村に来て初めての凪いだ心地で、眠りの淵に沈んだ。

――そして、それから。

ふ、と、目が覚める。完全に寝入っていた自分に驚かずにはいられない。自分でも気付かないうちに無理を重ねていたらしい。
空はすっかり日が暮れており、青い月と満点の星々が輝いている。いい加減そろそろ村長の邸宅に戻らなくてはまたいらぬ詮索を受けることになるだろう。
小さいフィリミナには懐に入ってもらうことになるな、と、そこまで思ってから、エギエディルズは、膝に感じていたはずのぬくもりが感じられなくことに気付いた。隣を見下ろし確認して、静かに瞠目する。
彼女がいない。どこへ行ったのか、と、一気に覚醒した頭で立ち上がり、周囲を見回す。
そして、見つけた。

「だめ! だめです! あっちへいってください!」

少し離れた草むらで、小さいフィリミナは、木の棒を振り回していた。彼女らしくもなく攻撃的な、そしてそれ以上にただただ必死な声だ。
そんな小さいフィリミナと相対するは、彼女よりもひとまわり大きな……と言ってもエギエディルズからしてみれば十分足で蹴散らせる程度の大きさの、蜘蛛のような姿の魔物だった。此度の遠征において問題となった魔物の幼体だ。エギエディルズが気付かなかったほど歯牙にかけるまでもない、いずれ成長すればアラクネと呼ばれるようになる魔物は、威嚇しながら小さいフィリミナに襲いかかろうとしている。
小さいフィリミナは、相変わらず木の棒を振り回しながら叫んだ。

「だめなんです! おおきいエディは、やっとおやすみちゅうなんです! だから、だから、おおきいエディは、わたくしがまもるんですから!」

だからちかよらないで、と訴える小さいフィリミナに向かって、蜘蛛がとうとう地面を蹴って襲いかかる。きゃあ! と小さいフィリミナが悲鳴を上げた。
もちろん、それを黙って見過ごすエギエディルズではない。ひゅん、と、文字通り人差し指で宙を斬る。紡がれた魔法言語は朝焼け色の矢となって、蜘蛛を貫いた。
そのまま倒れ伏し動けなくなる蜘蛛を前にして、へなへなと小さいフィリミナはその場に座り込む。
小さな手から木の棒が落ちるのを横目に、エギエディルズは大股で急いで彼女の元に駆け寄った。

「大丈夫か!?」

その身体を掬い上げ、怪我は、と、短く問いかけると、彼女はふるふると首を振る。そして、「ごめんなさい」としおしおと萎れる花のようにこうべを垂れた。

「せっかく、おやすみになっていらしたのに」
「そんなことはどうでもいい」
「よくないです!」

よくないです、と、もう一度繰り返す小さいフィリミナの瞳に、透明な膜が張る。そのままぽろぽろと涙をこぼし始める彼女の姿に、エギエディルズは文字通り固まった。

「ごめ、ごめんなさい、おおきいエディ。わたくし、ちゃんとあなたのことをまもってさしあげたかったのに」
「……お前は、ちゃんと守ってくれただろう?」

エギエディルズのことを、この小さな身体で、懸命に守ろうとしてくれた。その後ろ姿を見せつけられて大人しくしていられるほど、エギエディルズだって素直ではないのだ。
それよりもただ泣かないでほしかった。彼女に、フィリミナに泣かれるのは、エギエディルズを最も困らせることの一つなのだから。

「泣くな。泣かないでくれ」
「ご、ごめんなさ……」
「謝らなくていい」

ぐすぐすとしゃくり上げ始めた小さいフィリミナを手のひらに乗せて、エギエディルズは文字通り途方に暮れた。こんな時どうすればいいのだろう。誰よりも泣いてほしくない相手が、自分のせいで泣いている。それがこんなにも悔しくて切ない。
ああ、情けない。
そう思わず溜息を吐くと、びくりと小さいフィリミナの身体が震える。しまった、と思っても遅い。

「ごめんなさい、おおきいエディ」

ぼろぼろと涙を流す小さいフィリミナに、エギエディルズはとうとう耐えきれず、そのまま手を持ち上げて、その濡れた頬に口付けた。熱く塩辛いその味にぺろりと唇を舐めれば、小さいフィリミナがぽかんと大きく口を開ける。
驚きのあまりに涙が引っ込んでしまったらしい彼女に、信じられないほど優しく甘く微笑みかけ、そうしてエギエディルズは、小さく旧い詩歌の一節を口にした。

「まあ……!」

花だ。芳しく香る花が、手のひらの上の小さいフィリミナの上にいくつも降り積もる。
そのまま手のひらの上で花に埋れてしまった小さいフィリミナの表情に、花よりも愛らしか見えてならない笑みが広がる。
ああほら。やはり、彼女には泣き顔よりも笑顔が似合う。

「ありがとうございます、おおきいエディ」
「礼を言うのは俺の方だ」
「でもわたくし、けっきょく、あなたのことをおまもりできなかったのに」
「何度も言わせるな。お前は守ってくれたさ」

食事も睡眠もすっかりおろそかにしていた自分に、パンを食べさせ、昼寝の時間もくれた。十分すぎるほど、守ってもらった。
だからもうこれ以上はいいのだ。彼女には、本来守るべき存在がいる。

「もうこんな時間だ。そろそろ帰ってやってくれ。ほら、迎えが来たぞ」
「……!」

小さいフィリミナを地面に下ろし、少し離れた位置で、月明かりの下に浮かび上がるその存在をあごでしゃくってやると、彼女の顔に、先程よりももっと大きな笑みが浮かぶ。
誰よりも何よりも、ただただ心底嬉しそうなその笑顔に、エギエディルズは少しばかり複雑になった。

「ありがとうございました、大きいエディ。大きいわたくしに、よろしくおつたえくださいまし」

ぺこり、と、深く頭を下げて一礼した小さいフィリミナは、踵を返し走り出した。
彼女が向かう、その先にいるのは――……。

「エディ!」

小さいエギエディルズだった。その腕の中に小さいフィリミナが飛び込んでいく。難なく彼女を受け止めた小さいエギエディルズが口の端をつり上げると、小さいフィリミナもまた笑う。
そして小さいエギエディルズが杖を掲げると、そのまま二人の姿はかき消えた。後には何も、残らない。

「―――俺も、会いたいものだ」

他の誰でもない、エギエディルズのフィリミナに。やはり一刻も早く帰りたいという思いを新たにして、エギエディルズは、村長の邸宅への帰路に就いた。今夜はきっと、此度の遠征の中で最も長い夜になることだろう。

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