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庄司薫「白鳥の歌なんか聞えない」

庄司薫が気になる…
赤頭巾ちゃん気をつけてを読んで以来、僕はこの作家のことが頭から離れなくなった。
時々、無性に読みたくなることがある。あの饒舌体の思うツボなのが悔しいが、やはり好きなのだ。

庄司薫の本はもう本屋で売っていない。「赤頭巾」は大型書店でたまに見かけるが、それ以外の本はもう絶版なんだろう。
だから僕は図書館に行って借りた。2作目「白鳥の歌なんか聞こえない」

まず、読み始めてすぐに思ったこと。「作家で稼ぐには奥行きが必要」だ。
図書館の書庫から持ってきてもらった時は早く読みたくて仕方なかった。しかしいざ読み始めてみるとどうだ、「なんか飽きたなあ」となってくる。
一番の理由が「この饒舌体は最初のインパクトが大きいが、2作目となるとグッと威力が下がる」という点。「赤頭巾ちゃん」が世に出た時は「なんだこの新鮮な文体は!」となった。内容なんてどうでもよく、庄司薫の書く文章を見るだけで爽快な気分になった。そして読者はこう思う。「どえらい新人が出てきた!」

しかし次の小説もまた「饒舌な身辺日記」となると、読者はこう思う。「また同じような本なんだろうなあ」。つまり読者にナメられてしまうのだ。

次に思ったこと。こういう話口調の文体には限界がある、ということだ。300頁の小説となると、風景、会話、心理描写のバランスが自然と求められる。いくら風景の描写が綺麗でもそれが本の8割となると、どれだけページをめくっても「まーた次も風景だよ…」とうんざりしてしまう。逆に会話がメインだと、「ちょっとここらで風景描写でも読んで一休みしたいなあ」と、こちらも疲れてくる。もちろん「それがどうした」と突っ走ることもできる。しかし僕がこれまで好きになった作家を思い出していくとみんなバランスがいいし、バランスがいいということはサクサク読めるということだ。「サクサク読めないけど、めちゃくちゃ面白い」という本はない。サクサク読めないということは、あまり面白くないということなのだ。

で、矛盾するようだけど庄司薫はサクサク読める。しかしそれは悪い意味で「内容が薄い」からである。庄司薫の本を2冊読むと、庄司薫の腹の内側をほぼ100%読めるようになる。共感はできるのだが、作家は読者に底を読まれてはいけない。

庄司薫は、ありのままの自分を語ることが一番楽で、それが自分の唯一の武器で、しかも文壇に新しいことはもちろん理解している。こういう人は今の若者でも腐るほどいるだろうが、実際にこれをやる人はいない。だから素晴らしい。好感度はかなり高い。

しかし庄司薫がデビューからずっとこの「薫クン小説」を書き続けても、新しい読者はあまり増えなかったろう。読むのは毎回同じ人。そういう人はもう庄司薫中毒になっているので、庄司薫が書く文章なら何でもいいんだろう。

しかし村上春樹が3作目に「羊をめぐる冒険」を書いたように、いつかは文体頼りの猫騙し戦法をやめなければならない。やめなければいけないときうよりは、作家が先に飽きてしまうんだと思うが。


それと、今回の「白鳥」では、庄司薫は核心に触れすぎている気がする。特に200ページあたりの、小林と家で喋るシーン。これは非常に共感できるものの、庄司薫が本当に悩んでいることなのは明らかだ。村上春樹が「良いパーカッショニストは最高の音を叩かない」と書いていたが、そういうことだろう。作家は常に余裕を持っていなければならない。

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