レイモンド・チャンドラー

この前、紀ノ国屋の早川書房コーナーでチャンドラーの本を選んでいたら、横のおじいさんもチャンドラーの本を選んでいた。村上春樹・東野圭吾コーナーでは珍しくないが、チャンドラーの前でそうなると「おっ」、となる。そしてチャンドラーはやはり年配にとって面白いんだ、と思った。20代でチャンドラーを読み始めたのはラッキーである。

僕がレイモンド・チャンドラーに辿り着いたのは村上春樹だ。というか、村上春樹の経由なしにチャンドラーに行きつくのは難しいだろう。ハードボイルド小説なんて現代人は読まない。

チャンドラーの本が時々とても読みたくなるのは、その徹底した文体である。誰にでもできる情景描写を徹底することで、独自の文体を手に入れたのだ。ヘミングウェイと違うのは一文一文のユーモアである。ヘミングウェイはみたままの風景をコピー&ペーストする。チャンドラーは見た風景に一言二言余計な文句を付け加える。会話文も同じ。ヘミングウェイは会話をそのまま書き下す。チャンドラーは相手の質問にわざと答えない。あくまですっとぼけだ。これ、書いていてしんどくないのかなあと思う。多分、チャンドラー本人の性格が人間離れしているんだろう。

僕がチャンドラーのもとへ帰ってくる理由の一つに、チャンドラーはもうだいぶ昔の人、というのがある。というのも、チャンドラーにとってはただの情景描写なんだろうけど、僕にとってはアメリカのタイムトラベルみたいなところがある。例えばチャンドラーの小説には「マホガニーの箪笥」「・25口径のオートマティック」「葉巻」「ハンドル式エレベーター」のような、今の時代ではお目にかかれないものがバンバン出てくる。2022年と重なっているものはほとんどない。作家は昔から世界にいくらでもいるが、当時の風景をここまで箇条書きに、しかも本の趣向としては肩の力を抜いて読めるサスペンスもの、というのはなかなかない。ブローティガンは肩の力が抜けるアメリカの小説だが、情景はちょっと幻想的すぎるし、時代もまだ新しい方だ。


と、書いていて今思ったのだが、やはり一番はチャンドラーみたいな性格の人と友達になってみたいという純粋な興味な気がする。チャンドラーでなくともこういう性格でこんな喋り方をする人がいれば、ぜひとも会ってみたい。

チャンドラーの本は一冊読むとしばらくはいいかな、と思う。もっと楽で、ストレートな言い方をする小説が読みたくなる。で、そういう本を読む。そういう本を2冊読めば、またチャンドラーの本が猛烈に読みたくなっている。僕の本のサイクルのテコになっているのだ。

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