ヘッセのデビュー作「郷愁」
梅田の紀ノ国屋で何となく新潮社コーナーをぶらついてると、ヘッセの緑の背表紙の塊が目に留まった。そういや最近ヘッセ読んでないなあ、嫌いじゃないんだけどなんかハマらなかったんだよなあ、と思いながら見ていると「郷愁」というタイトルが目に入った。そういやヘッセのデビュー作ってなんだ?と思い、郷愁の裏表紙を見てみると、これがどうやらデビュー作らしい。冒頭を読むまでなく買うのを決心したが、一応冒頭を読んでみる。すると「あーこれこれ」という書き出しで、とてもワクワクしながらレジへ向かった。
郷愁はヘッセが27歳の時に書いた小説。文庫の作家の肩書欄に「書店で働くも、詩人になりたいので辞める」とある。こういうのはとても良い。こういう紹介文さえあれば、どれだけ小説がつまらなくても好感度で読める。
郷愁を読み始めて思ったのが、「車輪の下」より読みやすい!だった。これは車輪の下が難しいのではなく、車輪の下を読んだ当時の僕がまだ海外文学を半ば嫌々読んでいたから。どちらも青春小説で、大まかな内容はそれほど変わらない。
この郷愁でようやくヘッセという作家の性格を理解できた気がする。ノーベル文学賞作家だから何かが変でなければならないのだが、この人の場合、「小説には会話文が必要だと思っているだろう?」という、一見ひねくれに見えないひねくれが強い。
この点が、車輪の下をあまり楽しめなかったところだ。僕はひねった比喩と洒落た会話文が50:50になった小説が一番好きだ。しかしヘッセの会話文はあくまで「必要だから入っているだけ」で、やろうと思えば会話文一切ナシの文章だって書けるだろう。これを退屈と取るか前衛と取るかは、読者の読書経験による。車輪の下を読んだ時、ページ数の少なさに対して時間がかかってしまった。今回の郷愁もそれなりに時間がかかったものの、「これが自然派ヘッセ。風景の描写だけの小説でも、それが突き抜けているならノーベル文学賞だって獲れるのだ」と、勉強勉強と思いながら読んだ。
若いうちは色んな本を読まなくてはならない。郷愁を読んでいる間、何度も他のお気に入りの本に手が伸びたが、結局読まなかった。好きな本を読んだらよろしい、と言われればそうなのだが、もう2023年。同じ本を読んでも一瞬の気晴らしにしかならない。
こんな考え方でいいのか?とも思うけど……
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?