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無音の呟き

 大切な感情は言葉として浮かび沈みを行きつ戻りつしては霧消してしまう。今ここにある思いを、時間をつなぎとめるようなやさしい言葉があったなら、私は満ち足りない心をきちんと収めることができるのだろうか。

 一人の短い旅行をしている。好きなアーティストが揃うライブが地元よりも離れていたので、泊りがけになった。月に一回ほどのペースでライブに出かける。生に音や歌声が身体に流れ込んでくる感覚が本当に好き。不思議な一体感と浮世離れした空間に心身を委ねる。似たような理由で映画館も美術館も好き。さまざまな芸術が現実の私をを生かしてくれている。
 ライブ以外の目的もなく、行く先もなく、せっかくならと喫茶店と本屋を調べる。地元にいても別の場所へ行っても行きたい場所はあまり変わらない。変えたくないのかもしれない。日常と非日常のはざまでゆらゆらのいきていきたい。
 今月は本を沢山買ってしまったので、できるだけ増やさないようにしないとなと思いつつ、本屋に行けば毎回運命を感じてしまう本と出会ってしまう。何も買わずでるなんて、できるだろうか。抗えない。本との出会いは、それを書いた人との出会いであり、取り巻く人生との邂逅である。フィクションにおいてもノンフィクションにおいても同じように、その人をつくる言葉に触れたい。好きな人のからだやこころに触れたくなるように、求めていたものを埋めてくれる気がする。
 インプットの日々で、身体を使うことも意識しているけれど、言葉を外に出すことが少ない。友人や家族と話す言葉は、内側の言葉というよりも単純なラリーであることがほとんどなので、内側に言葉は停滞し続けている。こうやって散っていても外に出すことが必要だと思う。

 先日会った友人と、高校時代のことを話していたときに色んな同級生や先生の名前があがったのにも関わらず、殆ど覚えていないことに驚いた。どの名前も出来事も、昔観た映画のほうがよっぽど覚えているというほど当事者意識がない。私と友人の記憶であるが、引き出しが外側についているような気がする。覚えているのは、そのとき抱えていた感情くらいで、そこに紐づいてくる微かな記憶だけが漂う。そもそも私も友人も一人でいることが多く、人との交わりが少なかったからかもしれないが、それ以上に蓋をしてしまったことが多いのかもしれない。前を向いて生きていくには、薄暗く重たく、自分にとって息苦しいものを見ないようにしてなかったことにした。もちろん、その行動や言葉や人との関わりの蓄積が今の私をつくっているという前提のもと、過去を否定するわけでも肯定するわけでもなく受け入れるわけでもなく拒むわけでもなく、ただそこにあったものとして、まなざすだけ。会話は恋人の話にいつの間にかシフトしていた。

 カフェに居る。カフェと喫茶店の定義や違いはあまりよくわかっていないけれど、おそらくカフェだと思う。珈琲を沢山飲むと調子を崩すので、和紅茶を頼んだ。やさしい香り、穏やかな味わい。身体の底にゆっくりと落ちていく。本は読み終わった。植本一子と滝口悠生の「さびしさについて」という往復書簡形式の本で、よかった。最近は植本さんの文章ばかり追っている。届いて開いてない本も数冊ある。読みたいと思うものと、その時の温度感に合う文章が合わないとなかなか本が開けない。だからいつも数冊持ち合わせている。本がないと不安になるのに、いつも読めるわけじゃないのはなぜだろう。そういってまた新しい本に手を伸ばす。増やすばかりではなく少しは手放さないと、何が必要かわからなくなるよ。生きることは、簡単にはいかない。

 そろそろ帰りの時間、小旅行はおしまい。明日はまた別の友人と会う。人と会ったり自分と会ったり、心のバランスが崩れないように慎重に日々を整えていかないとなと思う。
(全く脈略がないけれど、最近甘いものを前ほど欲しなくなった。これは体の変化なのか、私も日々生きる時間を重ねている中で、じわじわと変容し続けているのだなと思う。)


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