動物は往生できるのか

先日、NHKおはよう日本でのペットと一緒に入るお墓と仏教の教義についてのニュースを見て少し思うところがあったので、しるしてみます。
 ペットと一緒にお墓に入りたいという多くの方の要望に対して、浄土宗の研究員の方が経典と解釈を見直した結果、畜生(動物)も死んで次の生に極楽浄土へ生まれることができるという根拠を見出したので、教理として(ペットと一緒にお墓に入ることは)問題ないという回答を出したという内容でした。
 私としては、人生をともにすごした大切なパートナであるペットを弔いたい、丁重に埋葬したい、できることなら家族の一員として一緒のお墓に入りたいという思いはとても分かりますし、宗教者として向き合っていかなければならない問題だと思っていますが、畜生(動物)が(すべて)死後に浄土に生まれるということになると、教義上、人間に生まれたことの意義、そしてお念仏を申して(真宗の場合は信心をいただいて)浄土に生まれていくという浄土教の実践の意味がうすらぐように感じます。そして、畜生(動物)と人間の関係についても問題が出てくるように感じました。
 そこで、研究を発表された石田一裕さんにツイッターで質問をし、またその論文を読んでみました。そうすると「畜生がすべて死後ただちに浄土に生まれる」ということではなくて「畜生が死後ただちに浄土にうまれる可能性がある」ということでした。必ず生まれると生まれる可能性があるのでは全然意味が違います。可能性がたとえ少なくても可能性があると言えるからです。報道では「生まれることができる」という表現でしたが、あたかもすべての動物が浄土に生まれると捉えられてもおかしくない内容でした。石田さんのツイッターでも「ペットと同じお墓に入れなかったとしても、極楽で会うことができるということです」と述べられています。
 その根拠となる経文は無量寿経の「三塗勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終わりての後に、みな解脱を蒙る」でこの文の解脱を往生と解釈できるということでした。
 仏教は輪廻転生の思想にもとづいています。分類に五趣と六道とありますが、五趣なら天(神さま)・人(人間)・餓鬼・畜生(動物)・地獄の境界があります。その下の餓鬼、畜生、地獄を三塗といいます。仏法の聞けない八難の中に、餓鬼、畜生、地獄は数えられています。仏教の基本ではこの3つの世界は、往生や成仏の可能性がないということです。逆に天・人は仏法が聞ける、成仏や往生の可能性があるということです。私たちはほとんど三塗にいて、たまに人・天にあがってくるといいます。ですから、この生まれ難い人間に生まれてあいがたき仏法に出会うということが尊ばれ、今こそ往生・成仏をめざせとすすめられるわけです。
 なので、基本ルートとしては三塗から人間に生まれて、教法にあってお念仏を申す身になり、往生するということになります。畜生から浄土に往生するというのはイレギュラーなことなのです。そういう前提があって、しかし上の経文をみると畜生からすぐに往生できると説かれているようにみえるけど、どうなのかと議論になっているわけです。
 石田さんが論文で浄土宗の解釈を書いておられるのを読み、私も浄土真宗の解釈を見てみました。解脱を往生と解釈はできると書いてあります。しかし、三塗を出るという解釈もあるわけです。真宗義では機によって異なるとかいてあります。多くの場合は果遂、すなわち畜生→人間→浄土で、まれに畜生→浄土もありうると書いてありました。畜生→浄土はイレギュラーなことだと言えると思います。一般化して浄土でペットと必ず会えるなどというのは言い過ぎであると思います。(浄土には地獄・餓鬼・畜生はないので、どういうかたちで会うのかという問題もあります) 
 以上が教義上の問題ですが、仏道を歩む人間として動物についてもっと考えなければならないことがあると思います。昨日、FBでネコは往生するかという文章を書きましたが、畜生(動物)が苦しみの世界である理由として、その原因の大きなものは人間であるということがあると思います。(往生要集の畜生の項にも書いてあります)
 人間の欲望のために、たくさんの生き物が管理され、食べ物にされています。人間に害を及ぼすとなれば、大量に殺戮されます。友人の獣医はその作業に大変苦しんでいました。人間は動物からどれだけのいのちをいただいて生きているのかと思います。ペットは往生できるということだけでいいのでしょうか。
 犬に仏性があるかという公案があります。浄土教でいえばネコは往生するかと言い換えられると思います。ネコと私とどちらが残虐なのでしょうか。ネコよりも欲望のために悪いことをしているのが私ではないでしょうか。動物を見て、人間の何が尊いのかを考えることはとても大切なことだと思います。ネコは不思議な光によって救われるのかもしれませんが、人間はやはり自分というものはどういうものか、私が救われていくということはどういうことかをしっかりと聞いていかなければならないのではないでしょうか。現在の浄土教は無条件の救いでどんなものでも浄土へ往生できるということをさかんにいいますが、答えだけではなく、この愚かなものがなぜ浄土に往生できるのか探究していきたいと思います。

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