喘息だと思っていたら卵巣がんでした。

初めまして。
朱那(しゅな)と申します。
普段は元気に腐女子として推しについて様々なことを叫んだり呟いたり絵を描いたり小説を書いたりミュやステを嗜んだりしています。
今回、闘病について何か残したいと思い、このような文章を書くことにしました。有料記事にしていますが、最後まで無料で読めます。治療費カンパしてやんよと言う方は購入していただけると助かります。


まず、この文章を書いている4月25日現在の状況ですが、緊急入院からの緊急手術を終え、摘出した卵巣腫瘍の病理結果待ちという状態です。
この病理の結果次第で今後の治療が決まるのですが、病名はもうわかっていて宣告されています。
最初に病名を書きますが、今回私が患ったのはタイトルの通り、卵巣がんという病気です。
また、検査の結果、子宮にもがんがあることがすでにわかっています。結果次第では、子宮も摘出する可能性があることも告げられています。
そしてこの病気が何で発覚したのか、経緯をまとめていきたいと思います。

私には元々持病がありました。
幼少期から通っている、家から車で10分以内の内科に毎月通って薬を処方してもらってました。
その持病の中に、喘息があります。
今回の病気に気付いたきっかけは、この喘息でした。


ハウスダストアレルギー、ダニアレルギーもある私は年中咳き込んでいるのですが、毎年秋頃から春近くまで、喘息の症状が酷くなります。
冬になると毎年酷い発作を起こして、点滴通院をしていました。


2020年秋頃、いつものように喘息の症状が酷くなり始めました。もくりでフォロワーと会話しても、咳き込むことが増えてきました。
しかしいつものことだと思い、処方されている吸入のみで治療を続けていました。


2020年年末、仕事納めが近くなった頃に症状は酷くなり、我慢できなくなった私は会社を早退させてもらい、かかりつけの内科に行きました。
この時は私を一目見てすぐ、医者が「点滴!」というくらい、体調が酷かったです。レントゲンで肺炎に達してないかの検査もしましたが、私をあまり歩かせまいと、医者が診察室から出てきて肺炎にはなってないと結果を告げられました。私は検査室からベッドに直行させられました。
またこの時に、食欲がなくなり食事をとれなくなりました。普段風邪をひいても通常通りの食事をとる私が、ほとんど何も食べれなくなりました。


2日ほど点滴に通い(病院が年末休業のためそれ以上点滴を受けられず)、家でひたすら寝て、大晦日にはいつもよりは少ないもののなんとか食事がとれるようになっていました。


2021年1月。年末に崩した体調は少し回復し、また食事もとれるようになりました。量は体調を崩す前より少なくなりましたが、何日も食べれなかったため胃が縮んだんだと思っていました。
そのまま食事量は回復せず、2月を過ごします。
平日は3食食べれるものの、休日は全くお腹が空かず、朝食にトースト(六枚切りを1枚食べきれない日もありました)、昼食はとらず夕食も食べたくないけど少しは食べないとと詰め込む状態でした。


この時、雪で滑って転倒し、怪我をした父が入院・手術を。前々から腰を悪くしていた母も入院・手術をし、会社の繁忙期と重なり、仕事と家事で疲れがたまり、体力がかなり低下していました。
家事は弟と分担でしたが、弟に甘える日が続きました。


そして3月に入り、8日に生理が始まりました。ところが、翌日には出血が1度収まり、不思議に思っていると。
9日〜10日の夜中、突然目が覚め「あ、来る」という感覚で飛び起きると、突然の大量出血をしました。
特大サイズの血の塊に、2時間で夜用ナプキンがいっぱいになる出血。腹痛に腰痛。それが一晩中続きました。
温風ストーブの電源をつけ、腰に温風を当てながら膝立ちし、上半身をベッドに投げ出すという体勢で一晩過ごしました。
朝になっても出血は多く、痛みも酷かったため、会社に連絡して当日欠勤をしました。


このような大量出血は3度目で、1度目と2度目は20代前半の時、大きな仕事が片付いてほっと一安心したタイミングでした。
3度目の今回も、仕事が片付き始め、父親が手術を無事に終え、リハビリのために転院したタイミングだったため、このような生理はストレスが関係してくるのだと思っていました。


11日には出血は普段より多いものの動けるようになったので、出勤しました。
しかし大量出血のためか、疲れやすく身体もだるかったです。おそらく貧血なのだろうと思い、鉄分入りの飲むヨーグルトを飲んでいました。
続く咳、咳き込む度に痛む腹と、咳の腹圧での出血、貧血症状で、この辺りも食事量は大分少なかったです。
そして生理が終わり、母の手術も終えた頃、腹部の異変に気付きました。
もともと太っていたので、いつからこうなったのかわかりませんが、明らかに前より腹部が膨らんでいました。
食事量はがくんと減り、体力もなくなり動けないため前からあまりなかった筋肉も減り、体重はどんどん落ちていったのに、腹部だけは膨らんでいました。


また、朝食後に弟の運転でスーパーに行き、食材の買い出しをしようとしたらスーパーに着いて即トイレに駆け込み、食べたものを全て戻してしまったこともありました。
食べ物はほとんど食べられず、食べても戻す。3月25日には、3月上旬に比べて体重が5.5キロ落ちていました。
咳もどんどん酷くなっていて、ゼェゼェという異音もありました。
夜寝る時は横になれず、クッション等で上半身を上げ、左を下にした状態でないと眠れませんでした。その体勢以外では咳き込んでしまうため、腰も痛めましたし、熟睡出来ず睡眠不足、どんどん弱っていきました。


父は退院したのですが、肩の腱を切って手術したばかりで、家事の手伝いはほぼ出来ません。私はこの時、料理以外の家事は出来なくなっていて、体調不良の私を気遣った弟がそれ以外全ての家事を行ってくれていました。
弟に申し訳ないと思いつつ、甘えて全て任せていました。

そして私はこれらの症状を全てTwitterで呟いていました。
すると、食事を戻す、咳き込む、左側が下でないと寝られないという症状から、1人のフォロワーから「それは食道ではないか」と逆流性食道炎を指摘されました。
すぐに逆流性食道炎を調べると、なりやすい行動や好みの食べ物、症状が、全て当てはまります。
4月1日にかかりつけの病院を受診する予定だったので、それまでに逆流性食道炎について色々調べ、改善策も試しました。


そして当日かかりつけの医者に、逆流性食道炎のことを相談しました。この日は食事をとってから病院に行ったため胃のCT検査が出来ず、レントゲンのみ撮りました。
医者が言うには、急激に体重が減って内臓脂肪も減り、内臓がそれで移動したのではないか。胃の出口が狭くなっているので、食べたものが下に落ちていかず、上に戻してしまい、喉の炎症を起こして喘息を悪化させているのではないか、ということでした。
胃酸の分泌を抑える薬をもらい、3日にCT検査の予約を入れその日は帰りました。


4月3日、弟は退院する母を迎えに、私は予約していたCT検査に。
そしてCT検査の結果、かかりつけの医者が言いました。
「胸水と腹水が溜まっている、これは卵巣だ、紹介状を書くからD病院(地元で一番大きい病院)の婦人科に行きなさい。」
「今は治る病気だから、過去に嫌な経験をした病院かもしれないけど、年月経ってて医者も入れ替わってるから。他の病院では無理だ、我慢してD病院に行ってください。」
「原因を探っていったら違う病気見つかっちゃったな……」

喘息の原因を探っていった結果、辿り着いたのは卵巣の異常でした。

3日は土曜日だったので、D病院と連絡がとれないため、月曜日に紹介状を貰いにいくことに。
医者の言葉に「もしかして……」と思いつつ帰宅し、退院した母と1ヶ月半ぶりの再開。
久しぶりに顔を合わせた母からの一言目は

「何そのお腹!!!!!!!!!!!!妊婦みたいに膨らんでる!!!!!!!!!!!!」

という叫び声でした。

4月5日。
この日は午前半休で紹介状を貰いに。
両親の入院のこともあり、2月から休みが多かったため、また休みをとらなければいけないなら次の週にD病院に行こうかな、と思っていました。
するとかかりつけの医者が「だめ、すぐ行って、明日にでも行って欲しい」と言い、D病院と話し合いの結果、8日に予約がとれました。

この時は症状としては
・腹部の膨らみ
・声を出すと咳き込む
・少し動いただけでも咳き込む
・体力低下
・食欲低下
・階段の登りがきつく、一息ついて気合いを入れてからでないと上がれない
・前かがみの姿勢がとれない(吐くため)
・脚のむくみ
がありました。


7日も普通に働き、夜にタイミング悪く生理が。今回は、3月のような大量出血はなく、極々普通の生理でした。


4月8日、D病院へ行く日が来ました。
家を出る前、母から「緊急入院になったら呼んで」と言われました。
「まさかそんな突然。昨日生理にもなっちゃったし、検査自体してもらえるかどうか。とりあえず行ってくるよ。」と断りました。
「着いていこうか」
「1人で運転して大丈夫なの?乗せていくよ」
と言われても、腰の手術をしたばかりの母に負担をかけられないと思い、大丈夫大丈夫と言って1人で病院へ向かいました。
10年以上ぶりに受診するD病院。
受付を済ませ婦人科に行き、診察前に話を細かく聞かれました。
えっ、昔こんな聞き取りなかったぞ。しかも私の話を笑ったりせず、馬鹿にもされなかったぞ。こんなに優しくされなかったぞ。
この時点で、昔の婦人科と違う……!?と驚きました。前に嫌な婦人科医に当たり、婦人科を憎んでいたのです。
そして診察室に呼ばれると、かかりつけの病院からの検査結果を見て、診察されました。
器具を入れられ、カーテンの向こうから看護師への指示で聞こえた言葉は


「入院」


の一言。


台から下り、着替えをしている間ずっと「まさか」「私のことじゃないよね」と考えていました。
しかし、医者から言われたのは
「今日このまま入院してもらいます。」
「いつ死んでもおかしくないよ。」
「この病院忙しくてね、今手術の予約を入れても取れるのは急いでも5月なんだ。でも君はそれを待てない。君は5月までもたない。今すぐ治療に入らないと、私達は君を助けることが出来ない。」
「今目の前で交通事故にあった患者レベル」
「はっきり言って、卵巣の腫瘍は悪いものです」
こうして、私の緊急入院が決まりました。


すぐに家族に連絡して病院に来てもらうようにと、別室に案内され、まず母に連絡しました。
私から電話が来ることを予測していたのか、何かを覚悟したような声でした。
そして次に会社に連絡し、緊急入院のためしばらく休むことを伝えました。
連絡するべき所に連絡し終えると、車椅子で病棟に運ばれ、重病人用の個室に入れられました。


本当はコロナ対策で付き添いの家族は1人のみだったのですが、私の車を持って行ってもらうため、父と母の2人が来て、特別に両親2人と私の3人で説明を受けることになりました。


腹水が溜まっているということは、医者としてはがんを疑うこと。これから沢山検査を受け、手術することの同意書へサイン。造影剤を使った際に起こるアレルギー反応の説明。喘息がかなり酷いため、呼吸器内科も受診して、喘息をどうにかすること。先に腹水を抜いて検査、ここで悪いものが見つかればがん確定。じゃなくても開腹手術で右卵巣は摘出確定、それを病理に回して最終的な結果を出す。
沢山の説明を受けました。


私はこの時説明を受けながら、
そんなに悪いなら、どうしようもなくない?
医者に全部任せるしかなくない?
何とかなりますって!
もしかして普通ならパニック起こしたり泣いたりする場面か?まぁ、いっか!泣いて病気が治るわけじゃないし!
オッケーオッケー、医者にぜーーんぶ任せまーす!
ここで治療拒否ったら死ぬんでしょ?手術するしかなくない?
はいはい検査も全部受けますよ!

と、次々サインをしていきました。
何もしなかったら死ぬんだもの。医者が助けようとしてくれるなら、その医者に全て任せちゃえばいいじゃない。


そして、D病院受診前に、Twitterで宣言してたことがありました。
「もし検査の結果がんだったら、がーんって呟くね」
呟きました。

朱那「がーん!\(^o^)/」
フォロワー「がーん!\(^o^)/じゃないですよ!」

怒られた。

でも何かやたらハイテンションだった。
もしかしてパニクってたのかもしれない。
具合は最高に悪く、看護師さんに車椅子で病院のあちこちに連れていかれて様々な検査をしました。
肺活量の検査、レントゲン、造影剤、MRI、胸水と腹水を抜いて病理検査。
呼吸器内科からは、定期的に吸う吸入と、発作が起きた時に吸う吸入を増やされました。
仰向けになることが出来ないので、検査は左側を下にしてなんとか撮ってもらいました。咳き込まないようタオルで頭の高さを調整されたり、何人もの人が出てきて、大変お世話になりました……。
造影剤検査では、喘息があるとアレルギー反応が出ることがあると説明されていた通り、私は造影剤を入れられたあと鼻が詰まって呼吸しにくくなりました。
口でしか息が吸えず、息苦しくなり、検査の人達も慌ててた。
検査のため絶食させられ、ドタバタと検査続きで疲れたけど、本来なら1ヶ月かけて調べるものを、2日で検査したと医者に説明されました。
それだけ私の寿命は残りが少なかった。
主治医に「入院してから2日でもう何人もの医者に会ったでしょう。君はそれだけ今危ないの。この病院が今どれだけ君を助けようとしてるか、わかってね」と言われて、夜に少し泣きました。

その後、3日の検査より胸水が減っていたこと、14日に手術することは決まったけれど、どうにかねじこんだから何時からの執刀になるかまだわからないことなど告げられました。
病棟の外に出ることは禁止され、自分で歩けるのはトイレまで。病棟外への移動は全て車椅子。
MRI検査後はごはんが出るようになったけど、出されたおかゆは完食出来なかったし、夜中には吐いた。
この辺の呟きを見返すと「運動もしていないのにご飯を食べるのが辛い」「またご飯が出てくる。食えるか。」と。食欲は低下したまま、咳き込みも変わらず、体重も1日0.5キロくらいずつ減ってました。
10日、入院してから初のシャワーです。はっきり言ってものすごく






ただシャワーを浴びただけなのに、体力を全て使い果たした。浴室から出て、脱衣所の椅子に座り込んで動けなくなるくらい、疲れた。
こうなることを見込んでいたのか、看護師さんには「シャワー終わったらボタンで教えてね、付き添うからね」と言われてました。「いやそんなー!1人で部屋まで帰れますってー!」と思っていましたが、無理。限界。一歩も動きたくねぇ……!いや動けねぇ……!朱那、活動限界です!


ボタンを押して看護師さんを呼びました。


身体はさっぱりしたのに疲労がすごい。
でもその日の夜はいきなり食欲が出て、割と食べれたし、そこから体力と食欲が回復していきました。
風呂というものは、ものすごく疲れるけども体力を回復するには必要なんだな……と気付かされました。

卵巣を摘出する際、もし腸に癒着していた場合を想定して、当日は手術室に外科も待機することになりました。
癒着していた場合、同時に腸の手術も行い、一時的または永久的に人工肛門をつけなければならないからです。永久的につけることになったら障がい者となり、器具代の負担が軽くなるけども、一時的なものだと器具代は全て負担になることを教えてもらいました。
人工肛門の説明をされ、装着する場合の位置を決めるために腹にお絵描き。この時書かれたやつ、手術後何回かお風呂入った25日現在でもまだ残ってますからね。消してよ。手術で管止めてたテープのノリもまだ残ってますよ。洗っても落ちねーんだ、これ。皮膚用の粘着剥がしとかマジック消す用の綿とか、ちょうだいよ。
ストーマの位置を決めるのに、普段の服装はパンツが多いかスカートが多いかなど聞かれました。
この時、看護師さんに「ストーマって知ってます?」と聞かれて、普通に「はい」と言えばいいのに、つい「島袋全優先生の漫画で……」と答えていた。オタクすぐ漫画で知識得たこと披露しちゃう……。
「そういう漫画あるんだ!渡したパンフレットのイラストレーターさんも自身がストーマつけてる方なんだよ!」と優しくしてもらいました。ごめんなさいねオタク自重出来なくて……。


かかりつけの内科に診てもらってた持病も、D病院の内科が診てくれることになりましたし、麻酔科に呼ばれて全身麻酔の説明とアレルギーの確認もありました。
ここでも喘息喘息。
どこの科に行っても喘息喘息。
会う全医者にめちゃくちゃ喘息を心配されてました。私の呼吸器そんなやばかったんだ……。


術前検査は全て済ませ、最後の準備。
手術前日夜、下剤の時間です。
酸っぱ甘くて不味い液体を飲み、待っていると来ました腹痛。トイレには3回駆け込みました。
お腹痛いし下すからおしりも痛いしで、二度とやりたくない!
入院してから一番辛かったのがこの下剤かもしれない。(その次に造影剤の注射。なかなか造影剤を入れられるような立派な血管が見つからず、合計4箇所刺された。)


そういえば、手術前の自律神経の検査も受けました。研究の資料にするとかなんとか。入院時の大量の説明の中に含まれていたことを再度説明されて、まぁいいですよ、と。
この時は不安もイライラも一切なく、肩こりくらいにしか点数を付けませんでした。
このまま何もしなかったら死ぬだけだけど、手術すれば生き残れるんだから。生き残るための手術をするのに、何を不安に思うのか。
そう思ってたが、検査のために机借りますねーと机を移動させ、私本人ベッドから降りれなくて机戻せない状態なのに机を戻さずに去ったあの医者にはイラッとした。必要なもの乗せてる机だよ!私の手が届く範囲に戻せよ!


手術当日・14日。
朝一番の手術のため、8時に母親と再会。
少し話をしてストレッチャーに乗せられ手術室まで運ばれました。


すごーい、ドラマとかで見るやつだ!
初めて見る手術室に、不安どころか少しわくわくしていました。ストレッチャーに乗せられ運ばれ知らない天井に沢山並んだ手術室。あまりの非日常な光景に、アトラクション感覚でした。
手術台に移って麻酔。
起きたばっかでそんな眠くならないでしょ。ほら、手術室の様子に興味津々目ギンギンだよ。今後の創作活動のネタになりそうなものはないかい。何か、何か覚えて帰りたい!
「はい、段々眠くなりますよ」
その声を聞いて数秒後、自然と瞼が落ちた。



次の瞬間、声をかけられた私はICUにいました。
喘息が酷いため、開腹手術直後に咳き込んで傷口が開いたらやばいと、手術前から入ることは決められていました。
渡された資料では、ベッドが複数並んでいてカーテンで仕切られた部屋のはずが、ここは……個室では……?(料金どうなるの……)
意識がぼんやりする中、母と看護師さんの「喘息が……」「喘息ですよね……」という、咳き込みを不安する声が聞こえました。この時痛みは全くなかったです。
喘息喘息というワードが飛び交う中、私はなんかまだ眠いし寝よっかな……でも母と会話少しくらいしとこうかな……とのんびりしてたはず。
記憶がこの辺少し曖昧なんですけど、多分言葉は交わしたはずです。母は10分しか滞在出来ないため、すぐいなくなりました。


その後、看護師さんに頻繁に声をかけられ、こまめに世話をされました。
自分では全く動けないため、床ずれ予防に身体をずらすのも皆看護師さん任せ。ごめんなさいねこんなデブ……看護師さん大変ですね……と思いつつされるがままでした。
「朱那さん大分汗かいてますよ、暑いですか?元々汗かきですか?」
確かに汗だくだった。でも全く暑くはなく、足だけ布団から出してもらいました。
血栓が出来ないよう、ふくらはぎに空気で膨らます装置をつけられ、定期的に足をマッサージされたり、身体を今度は逆方向に傾けられたり。
眠気は感じないんだけど気がついたら寝落ちる→看護師さんに声をかけられて起きるというのをずっと繰り返していました。


そのうち、痛みを感じ始めたのでナースコールを押しました。痛みを訴えると「今、痛みは十段階のうちいくつですか?」と。


十段階……???????痛みのマックスってどのくらい……???????痛いけど、数値化するとこれってどれくらい……!?!?!?!?!?マックスって死ぬ痛みだよね!?!?死なないけど!この痛みでは死なないけど!ちょっと痛みが強い生理痛くらい?数値化どうすればいい?


過去に母の手術を3回見ていて、3回とも麻酔から覚めてすぐの母は「痛い……痛い……」とかなり痛がっていた記憶を思い出しました。この前の手術後も痛い痛い言っていたし、翌朝までに痛みが強すぎて痛み止めをかなり追加したと聞いてました。
普段痛みに強い母がそうなるのだから、きっとこの麻酔が覚める事にもっと強い痛みが来るのだろう。うんうん唸るくらいの痛みが来るのだろう。
とりあえず、痛みレベルは3と答えました。
こんなん咄嗟に数値化出来るか。


その後痛みを感じる度に痛みレベルを聞かれ、痛み止めを追加していきました。
一番痛みが強い時で痛みレベルは6。これ以上があるかもしれないと怯えつつ、看護師さんから「7時ですよ」と時間を告げられました。
ICUにいた時はものすごく時間が長く感じられたので「15日夜の……?」と聞いたら「15日朝です」と。あんだけ長時間に感じてたのに!
15日朝10時15分、ICUを退室して、元の病室に戻ってきました。


痛み止めと維持液の点滴をし、ひたすら寝ました。本当は手術翌日から、血栓予防のため歩かされるのですが、私はICUに入ったこともあり、歩くのは16日からにされました。
でも夜には、ベッドの縁に腰掛けて床に足をつけよう!と言われてチャレンジ。むりです。腹を大きく切っていて腹筋が使えないので、起き上がれません。
自動ベッドで背中をあげても、ベッドに寄りかかるのでいっぱいいっぱい。背中を離すことが出来ませんでした。看護師さんには無理しないで、今日はそれで十分だよと甘やかされました。


そして16日からはひたすら寝て傷口の回復を、時々起き上がっては歩行の練習をしました。


オタク、ウマ娘をやってましてね。
1回育成し終えたら個室内の洗面場まで歩く、歩いたら休憩、そしてまた1回育成し終えたら歩行チャレンジというものをやっていました。
ありがとうゴールドシップ、強い君を作りたくて歩行チャレンジ頑張りました。


立てるようになってから体重測定もありました。手術前と比べてマイナス6キロ。腫瘍と腹水の分です。
3月上旬、ピーク体重から比べて15キロ落ちていました。二の腕も太ももも、前より肉が落ちたはいいけど皮が余っている状態です。どうしようね、これ。
しかし、手術前は何もしていなくてもどんどん落ちていた体重が、手術後は減らなくなりました。腫瘍がそれだけ酷かったってことですよね。


手術から数日、診察室に呼ばれました。
「切ったもの見ますか?」と聞かれ、興味があったので見せてもらうと、写真を数枚見せられました。


自分の腹から内臓出てる写真見たよ!!!!レアじゃない!?!?!?!?!?


卵巣はかなり大きく、手のひらサイズでした。
取ったものは病理に回してるけど悪いもの(がん)だったこと、腸に癒着はしていなかったのでストーマはつけていないこと、手術前の検査結果で子宮にもがんが見つかったことを告げられました。卵巣だけで終わるといいなぁと思ってたけど、まさか子宮もとは。

今後はまず病理の結果を待ち、がんの元が子宮なのか卵巣なのか、両方にあるのは転移なのか特定し、化学療法を受ける説明を受けました。
治療に関してはまだ確定ではないけど、とにかく病理の結果次第だと。


というわけで今は個室から大部屋に移動し、寝まくって傷口を回復させています。
今は食事量も大分回復し、出されたごはんはほぼ食べれています。おかゆが多すぎるのでどうしてもおかゆは残してるんですけど。


あんなに心配されていた酷い喘息も、身体がやばいと感じたのか手術後はほとんど出ていません。手術後3日くらいは、咳も、鼻水も、なぜかくしゃみも出ませんでした。じんたいのふしぎ。


大部屋は4人部屋ですが、コロナ対策でカーテンを閉めっぱなしにしているので、半個室の状態です。
コミュ力は低くない方なんですが、一日中知らない人と顔を合わせてぺちゃくちゃ喋るのは疲れるので、この状態はとても助かりました。
まぁ、同部屋のうち2人がめちゃくちゃ喋るので一日中何か会話しててめちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃうるさいんですけどね。
声も大きいので、廊下歩いてて結構先まで聞こえるので本当にうるさい。
しかも年寄りなので同じ話をぐーるぐる。個人情報もバンバン話すので、ちょっと心配……。


そんな感じで回復していき、無事に4月24日を迎えられました。私の誕生日です。
この病気に気付いていなかったら、主治医の「5月までもたない」という言葉通り、死んでいたかもしれません。
TwitterでもLINEでも、沢山の人に祝ってもらえました。
「ちょっと祝ってもらっていっすか?」の言葉に、たくさんの方からお祝いのことばやいいねをもらいました。病院からは誕生日祝いのお祝い膳が出されました。
生きててよかったと思いました。


今回の緊急入院・手術を終え、定期的に婦人科健診を受けることの大切さに気付きました。
会社勤めをしているので、普通の健康診断は受けてますが、婦人科は含まれていません。

20代の頃、婦人科医に嫌なことを言われて婦人科を憎み、市負担の子宮がん検診も受診していませんでした。
これを受けていれば、もっと前に発覚して、負担の少ない治療が出来ていたのかもしれません。

「1つの病院でクソ医者に当たったら、違う病院に行けばいい」とも言われましたが、収入がそう多くないため、複数の病院を受診する余裕はありません。

また、周りの評判を聞こうにも、婦人科に通ってる人が周囲にいませんでした。

婦人科に行くのはハードルが高いです。
女医でなければ怖いけどなかなか見つからないとか、勇気を出して婦人科に行っても嫌な経験をして更に行きにくくなったり。インターネットでの評価も、ここの先生はよかった!という声より悪評の方が目立ち、怖くなったり。

でも、婦人科に通って定期的にチェックするのはとても大事だと大声で周囲に伝えたい。
既に友人たちには、私の今回の病気のことを伝えて、婦人科を受診するよう伝えました。この記事を見てくれてる方も、一度チェックしてもらってください。


おそらく来月から抗がん剤治療や放射線治療が始まると思います。来年も皆に誕生日を祝って欲しいので、治療頑張りますね!
ほしいものリストから誕生日プレゼントを送ってくれた方、ありがとう!退院したら受け取ります!退院した時の楽しみにします!

記事の内容はこれで全てです。無料で全て読めるのですが、現在仕事を休業で無収入、高額医療の申請はしているけど、生命保険のがん特約一時金申請は病理の結果が出てからということで、治療費に当てるカンパをいただければ嬉しいです。
現在両親が様々な料金を支払ってくれているのですが、記事にもあった通り、両親も入院・手術で休業していまして……。
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