定食屋「欽」譚 (8)

 1965年3月22日 

 美代子は欽一が山で亡くなった詳細な経緯を、中学一年まで知らずにきた。欽一が遭難した日、母が図らずも美代子に投げつけた「あんたのせい」という言葉は頭の中にこびりついて消えていないが、具体的な兄の姿を描くことはできなかった。誰も教えなかったし、面と向かうと何を言われるのかが怖くて尋ねることもしなかった。
 あの日以降、野原の家の中が変わった。静かになった。和の笑い声が一番賑やかだったのにほとんど笑わなくなった。巌は外で過ごす時間が多くなり、畑仕事の何もかもを自分でこなした。以前は本家の兄に手を借りていた切り株を撤去するような重労働も、和と二人で黙々とこなした。
 二人とも疲れ果てて夜を眠った。巌は、晩酌をして美代子を膝にのせて陽気になることもなくなった。天井が高くなった。家が広くなった。美代子は自分の身体が小さくなっていくような気がしていた。
 一年たつと、欽一の身の回りの物がリンゴの木箱に詰められて屋根裏へ仕舞われ、仏壇の写真と位牌と黒い石だけになった。
 恭太は野原家へ来なくなった。学校で美代子に会っても声をかけてこなかった。美代子から話しかけることもなかった。
 一番変わったのは和で、娘の目を見なくなった。触れることが無くなった。最小限のことしか話しかけなくなった。美代子は、幼いながら和の顔色を見ながら、自分の家での役割を探し出し、玄関土間のごみを箒で掃き出したり、畳を茶葉の出涸らしで拭き清めたり、自分なりにこなした。和が美代子を無視する分、美代子は和の一挙手一投足に意味を探しおもんばかった。
 美代子は欽一のことで、誰かから何かを面と向って言われたことは一度もない。責め立てられもせず、慰められもせず、毎日を苦行のようにこなす両親を見て育った。

 美代子が中学一年生の3月の卒業式の前日、恭太の同級生を兄に持つ友人を介して恭太に呼び出された。放課後、学校裏の池のそばで待っているという。男子からの改まった呼び出しに気後れしたし、長い間話をしていないという不自然さが心に重かった。が、時間が迫ると、卒業するともう会えなくなるかもしれないと気持ちが先立ち、足は裏庭へ向かった。
 池を被うように立っている大木の橅のそばで、美代子は足を止めた。木の芽は膨らんで枝は天へ伸びている。下から見上げると大小さまざまな枝が張り、空をレース越しに見ているようだ
 美代子は葉を落とした木々が、枝を広げる様子を見るのが好きだった。葉が茂っていると見えないけれど、この時期、樹木は裸のままで、幹から四方八方に延びる枝ぶりは、細やかで互いに触れもせず、緻密だが伸び伸びとしている。山でも丘でも通りすがりの道端でも、なぜか見ているだけで体の中のあらゆる隙間が広がり、心が軽やかになる気がした。
 目を落とすと恭太が池のそばに立っていた。青空は見えているが、肌寒く雲の流れは速い。美代子は濃緑の毛糸のマフラーを巻き直してそばへ近づくと、恭太は池に沿って歩き始めた。美代子はついて行った。池の北の淵に蕗の薹が並んで日に照らされている。
 音楽室の真裏の非常口の前に、合唱や楽器の練習に使う幅の広い木の階段があった。恭太はそこへ坐った。そばへ寄ったがどうしてよいかわからず立ち止まった。
 5年近く、ほとんど話したことがない。その色白の顔は懐かしく、眼差しも見慣れた当時のままだった。隣に来るように促されて、坐ってスカートのひだを整えた。卒業式の練習でもしているのか、音楽室からのざわめきに気が紛れ、体中にたまった緊張をほぐしてくれる。
「美代子、僕は札幌の高校へ行く。もう会えないかもしれないから、話しておきたいことがあって来てもらった」
 声は随分変わっていた。清の声に似ている。『美代子』と前と同じように呼ばれて一気に距離が近づいた気がした。札幌市にあるN高校へ進学するのは噂で聞いている。北海道内で有数の進学校でここから進学した者は数えるほどしかいない。
「欽ちゃんが亡くなった時のことを、聞いたことがあるだろうか」
「私には誰も何も教えてくれない」
 静かに話すつもりが、切り口上になるのを止めることはできなかった。
「そうだと思っていたよ。僕は両親にも、捜索にかかわった親を持つ同級生にも訊いた。機会があるといろんな人に根掘り葉掘り訊いた。大人は僕には隠そうとしたけど、みんなの話の辻褄を合わせると大体のことはわかった。でも美代子は小さかったからきっと何も知らされないままなんだろうと思っていた」

 欽一と恭太が針葉樹林へ向かう後ろを、足音が聞こえるわけでもないのに、抜き足差し足で追った日のことをまざまざと思い出した。恭太の水色のリュックを目指してはぐれないように必死で追った。解け始めた霜がパキパキと音立てるので、気づかれないよう兄達の足跡の上を歩いたりした。
「あの時僕たちは三人で山に入った。一人が帰ってこなかった。その一人のために、僕はあの時起きたすべてを知っておきたかった。残酷でも、悲しい現実でも欽ちゃんのために胸に叩き込んだ。美代子はどうだ。知らないままでいたいのか」
 責めるわけでも問いただすわけでもないが、厳しい響きの言葉で問われた。
「教えてください。兄ちゃんがどうなったのか」
 言葉のしまいのほうは、ことの怖さで消え入りそうだったが、何とか言い切った。恭太から、どこでどういう状態で発見されたのか、どう倒れていたのか、なぜ亡くなったのかを初めて聞かされた。
 欽一が亡くなった時の有様は想像すらしていなかった。強いて思えば死自体が『眠るような』という印象だったかもしれない。
 あの時、飴玉を2個自分にくれた欽一の優しさ。でも欽一があの2個の飴を持っていたら、二晩生き延びたかもしれないと美代子は幼心に考えて、あれ以来飴をなめられなくなっていた。
「駄目と言われたのに、森に入った自分が悪いのだ。兄ちゃんは私を探したから帰ってこなかった」
 和が「あんたのせい」と言いかけたのは、まさしくそのことだった。誰にも一度も聞けなかったがずっとその思いを抱えている。それ以上でも以下でもなく8歳の「私のせい」が兄ちゃんの周りをぐるぐる回っている。
 恭太が教えてくれたのは、欽一が崖から落ち頭を打って、死に至ったということだった。欽一が発見されたのは、タケノコ山の中でも切り立つ沢が危険で、普段は訪れない場所だった。そこへ行ったのは、美代子が迷い込んでいたらと心配したからだろうという。美代子は打ちのめされた。
 家の仏壇の前にある小座布団の上の黒い石は、欽一が最後につかんでいたものだという。家族のみんなが、村のみんなが石のことを知っていたのに、美代子には何も知らされていなかった。
 両親は石のことを説明してくれなかったから、美代子は粗末に扱うことがあった。寝室の掃除の時にコロコロと転がして、小座布団に戻さなかったり、窓の桟に置きっぱなしにしたり、時には足をぶつけることもあった。しかし、いつの間にか磨かれて仏壇のそばに戻っていた。
「私のせいで、兄ちゃんが死んでしまった。お父さんもお母さんも一生私を許してはくれない」
 そんなような思いのたけを美代子は口走った。不安で決して口から出したことがない一言が表に出た。両手で顔を覆った。恭太は美代子にハンカチを差し出し、美代子の肩に手を置いた。
「違う。美代子は何も悪いことなんかしていない。美代子のせいでああなったなんて誰も思っていないよ」
 美代子が散々泣いて、鼻を啜りしゃくり始めると、肩から手を降ろした。
「謝るよ、美代子。君がそう思ってずっと苦しんでいたのは僕のせいだ。欽ちゃんを死なせてしまった本当の理由を誰にも言えずに抱えていたから」
 恭太は両手で頭を掻き毟った。一陣の風で池に波が立った。池の向こうの、学校と隣家の境目にあるいぼたの樹の生垣が、ざわざわと揺れた。
「寒くないか」
「私は大丈夫」
 首が細く長い恭太の方が寒そうに見えた。コートの襟を立てているが耳たぶが真っ赤になっている。
「僕が欽ちゃんに頼まれた伝言を、きちんとおじさんに話していたら、おじさんは明るいうちに森へ入って、まだ生きている欽ちゃんを探せたかもしれない」

 5年前の欽一の野辺送りの時、美代子は櫻田家と共に清が運転する車で焼場まで行った。道中、左手にイルムケップの頂上が見える場所がある。
「欽一君はイルムケップを庭のようにしていたと野原さんはよく自慢していたよね」
「家に遊びに来ても、無駄なことはひとつもしないし、言わなかった。本当に賢い子だった」
 イルムケップを見ながら、父母の遣り取りを聞いていて恭太は自分の過ちに突然気づいたという。
「欽ちゃんは『日が暮れる前に家へ戻るから』そう言った。だとすると家には暗くなる前には着く。それで戻らなかったら欽ちゃんを探さなくちゃならなかったんだ」
 美代子が見つかった安心感で舞い上がっていた恭太は、欽一の伝言をいい加減に伝えた。
「少し探したら下りると言っていたって……」
 恭太は車の中でその気付きを話し出せなかったという。
「その後も誰にも言えなかった。言わない自分の卑怯を、あの時深く考えなかった愚かさを、欽ちゃんに謝り続けてきた。死んだ時の様子がわかってくるにつれ、自分への厭わしさが激しくなった」
 美代子の横で、恭太は両手を合掌し、体を折るように頭を下げしばらくの間じっとしていた。
「君には伝えたかった。僕のせいで欽ちゃんが亡くなったということを。みんなに話してくれ。ここにいなくなるから平気ということじゃない。生涯自分を許せない、許さないと解ってきたんだ」
 美代子は、祈るように合わせている恭太の長い指の白さに眼をやる。指の上に顎があり、白い顎にまばらに細いひげが生えている。
「おやじとおふくろには、もう話した。おふくろは『誰も責められない事故だった』と言った。でも自分のしたことを、忘れることは出来ない」
 美代子は、恭太の話を聞いても、自分の疾しさが薄れないのを知った。恭太を恨む気持ちも生まれない。おばさんが言うように事故とも思えず、やはり自分が一番悪いとしか思えないのは恭太と同じだった。
 だが、父母に一生許してもらえないという不安は、言葉にしたからか、恭太に聞いてもらえたからか、幾分かろみを得ていた。 美代子の苦悩の器は8歳から13歳用へ変わったということだろう。
 時間が経っても、欽一が戻ってくるわけでもなく、父や母や家の中が変わる当てもない。この地を去る恭太が羨ましく「自分もいつかここを出たい」と意識したのは、今までにない強い変化だった。

 言い尽くしたのか、しばらくすると恭太が立ち上がった。美代子も遅れて立ち上がりスカートの後ろを無意識にはたいた。階段を下りて池へ戻る途中で、恭太が振り向く。
「さっき、あの橅の大木のところでずっと上を見ていたね。何かがいたのかい」
 美代子はさっきの思い付きのことを考えていたから、すぐには何をいわれているのかわからなかった。恭太の目線を追って、裸木のてっぺんを見て初めて理解した。
「枝を見ていたの」
「えだ?」
「私、葉が茂る前の木を見るのが好きなの。裸の木の枝ぶりが。変でしょ。意味わからないでしょ」
 話しているうちに声がつっかかり、頬が熱くなった。
「わかるとは言えないけれど、葉があるときには見えない今時期の枝は、確かに目を引き付けるものがある」
「そう思う? 恭太兄ちゃんはどこに惹かれるの?」
 美代子は、橅の枝ぶりの繊細さに目を奪われて『恭太兄ちゃん』と口にしたのにも気づいていない。
「どんなに小さい枝にも居場所があるのがわかる。膨らんでいく芽が全部見えるのもいいな。見える希望?」
 美代子は心の内で手を打っていた。さすがに心が軽やかになるとは言ってくれなかったが、同じように見えていることが単純にうれしかった。希望という言葉は、裸木が好きな理由をさりげなく裏打ちした。
 下校時間を知らせる鐘がなった。恭太はもう伝えることがないか確かめるように自分の掌を見ていたが、やがて美代子に「さようなら」と告げた。美代子も同じように返し、手を振って教室へ戻った。

 

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