定食屋「欽」譚 (6)

1960年6月11日 

 6月初旬の早朝、陽が高くなるにつれ山に掛った霧が薄くなっていく。昨夜は雲一つない月夜で霜が立った。野原欽一は10歳になったばかりだ。いがぐり頭で、色黒だった。二重瞼の大きな眼をしており、表情は凛々しい。
 山の麓にある欽一の家の前で、同級生の櫻田恭太とともに山へ入る準備をしていた。裏山の雪が消えやちぶきの旬は終わり、その奥の山では北国の筍が採れるようになる。庭からは見えないが、その山はイルムケップと呼ばれ、連山の頂上は標高600mを超える。
 欽一が入ろうとしている幌倉川の北に位置する標高300m近くの山では、地元民が筍と呼ぶ根曲がり竹の若芽がたくさん取れる。
 さらに奥へ入ると、酪農を営む八軒ばかりの村落があった。400mを超える山の頂から南西側の斜面はなだらかで、森の木々は根が取り払われ、牧草地になっていた。小さな家屋や納屋、牛小屋が散在しており、山影にはまだ雪が残っている。 
 欽一は軍隊の払い下げの緑の厚地のリュックに、新聞に包んだナイフと軍手とゴム合羽を入れた。恭太は今風の青いリュックサックだった。昼前には帰って来るつもりだったので、二人とも握り飯は持たず、からの水筒を下げている。恭太が飴玉の袋をポケットから出して、欽一にはだかの飴を2個渡した。
「おっ、しょうゆあめだ。ありがとう」
 鳶色の目を大きく見開いて、直径2㎝ほどもある濃茶のまん丸の飴玉を見詰める。
「山で嘗めよう。力が沸くから」
 恭太は頷いて残りをポケットにしまった。欽一より頭半分くらい背が低く髪は坊ちゃん刈りで、色が白い。欽一の色黒と比べて、同級の悪たれどもは仲の良い2人を黒白幔幕と呼んでからかった。
 2人は家が近いこともあり、物心つく前からの友だった。賢い欽一は学級でいつも1番だったが、恭太は時々2番だった。
「欽ちゃん。あれ」 
 欽一の2歳下の妹、美代子が玄関から顔を出していた。黄色いアノラックを着こんで手袋を付けている。
「美代子、どうしてそんな恰好をしている。連れて行かないって言っただろう」
「お父さんもお母さんも兄ちゃんと一緒ならいいって言ったもん」
 二人の父、巌と母、和はキャベツの苗植えで早朝から家にいない。
「駄目だ。遊びに行くわけじゃないんだぞ。帰りは重い筍を背負って帰るんだ。まだ小さいお前には無理だ」
「兄ちゃんがはじめて山に入ったのは美代子より小さかったって、お父さんが言ってた」
「駄目だ。足手まといだ。行こう、恭太」
 欽一は家の東側にある針葉樹の林へ向かって歩き始めた。林は野原家の土地で、隣接する野原の本家から、巌が分家した時に植樹したもので、10年を超える辺りから、落葉茸が採れるようになっていた。林へ入り、北へ進む。細い林道が通っており、針葉樹の枝は歩く邪魔にならないように斧で切り払われていた。欽一の後ろを恭太が無言でついていく。

 1人っ子の恭太は美代子が可愛かった。同級の女の子とは、照れや恥ずかしさが先だってうまく話すことができなかったが、美代子が幼いころから兄と話すように恭太兄ちゃんと話しかけて来るので、自然に打ち解けられた。妹がいたらこんな感じなのだろうと思う。 欽一が美代子にそっけないと、腹が立ったりする。もっと大事にすればいいのにと思うのだ。
「僕もいるのだから連れてきてもよかったのに」
 直には言えず心の中で言ってみる。
 針葉樹林を外れて林道は続く。勾配がきつくなり、山毛欅や白樺が空を覆って薄暗いが、新緑に透けて青空が見えた。さらに50mほど行くと原野が切り払われて小さな小屋が立った空き地があった。人の気配はなく木の扉には鍵が掛かっていた。
「三部さんは、今日は町に買い出しに行っている」
 欽一は恭太に説明した。毎年雪が解けると、野原家の山に三部という炭焼きの男が土地を借りに来る。自分で泥釜を作り落木や間伐した木を集め、夏から焼きはじめる。焼きあがると炭鉱従業員の住宅や、商店街で売り歩き、冬に入る前に山を下りる。冬の間は坑内で働いていた。炭焼き釜はまだ土台が掘られているだけだった。
 小屋から西に折れた林道を辿っていくと、水の流れる音が聞こえ始める。恭太が三部の小屋を振り返った時、黄色いものが眼の端をちらついたがすぐ消えた。小さな動物だろうか、気の葉が落ちただけだろうかと思っていると、前を歩く欽一が手を挙げた。
「恭太、水源の様子を見に行くぞ」
 水の音は地下水が湧いている沢からだった。霜柱が解け、踏みしだいた雑草が滑る。2人は道脇の低木にしがみつきながら慎重に降りて行った。
 巌は、湧水を堰き止め、管に通して自宅まで引いていた。その横に半分に割った竹が差し込まれており、湧水が流れ出ていて誰でも使えるようにしてあった。
 湧水の溜まりの上には板屋根が置かれ、網が管の口を覆っている。欽一は、板屋根の上の石をおろし屋根を外した。網のそばに溜まっている落ち葉や小枝のごみを、水が濁らないように静かに取り払った。
 屋根を元通りにして水の流れが落ち着いてから、2人は湧水口で冷たい水をたらふく飲み、水筒をいっぱいにして林道に戻った。
 上り坂を進むうちに、徐々に木々がまばらになり、明るくなると笹が群生している場所に出くわした。
「よし、笹藪を超えるぞ」 
 恭太は、欽一の掛け声に「おう」と応じ、藪には少し遅れて入る。近いと欽一がはねた笹が、顔や体にばしばし当たって痛いからだ。笹の根につまずかないように下を向き、耳は欽一の気配を追う。笹藪は欽一の言うとおり、山の木々が深くなり、日影が多くなるにつれ減っていった。少し先の、東から朝日が射す明るい場所は、再び笹が混んでいるのが見える。
 後ろで藪ががさがさと音立てるのを聞いて、恭太は抜けたばかりの笹藪を振り返った。
「欽ちゃん、何かいる。熊か」
 恭太は足がすくみ欽一に知らせるために声を出すが、声はかすれ胸が高鳴った。
「どうした。イルムケップに熊はいない」
 欽一が言いながら振り返った時、藪から黄色い塊が飛び出した。恭太の叫び声と、塊が発した悲鳴が重なった。小鳥が驚いて何羽も飛び立った。
「美代子」
「兄ちゃん。痛いよ。根っこにつまづいて転んだよ」
 二人の顔を見た途端に、美代子は座り込み、顔をゆがめて喚き始めた。
「来るなって言っただろ。邪魔だって言っただろ」
 欽一が美代子の声に負けまいと大声を出すのを聞いて、恭太は治まりかかっていた動悸が再燃するのを感じた。
「欽ちゃん。どうする」
「どうするって、連れてはいけないぞ。美代子は口達者だけど、全然、意気地なしなんだ。足手まといだ」
「でも、ここまで1人で来たんだし。連れて帰ったりしていたら、今日の筍狩りは無理だろ。小母さんが茹でる準備してくれてるし。明日炭住に売りに行って金を……」
 つい美代子をかばう恭太に欽一は声をとがらせた。
「うるさい。一人で来られたなら、一人で帰れ」
 二人は筍を売って野球の道具を買おうとしていた。山には、先週から入ったが、残雪が多くて収穫は少なかった。6月中に4回も売ればお年玉と合わせてバットやグローブ、ボールも買えると考えていた。
「美代子一人で帰れない。足痛いもん」
 そういいながら立ち上がって黒くなったズボンの膝を撫でさすった。
「熊に食われろ」
 そういって後ろを向いて腕を組む。恭太も同じように腕を組む。美代子は泣き止んで兄の姿を窺い見る。
 笹藪を照らす朝日がまぶしい。周りの木立ちで枝が鳴り、葉がざわめく。静寂の中にも森の音は絶えない。2人は、唾を飲むのも忘れて、欽一の一言を待つ。
「よし。あの笹藪を超えるとまるく開けた所がある。日が射して明るいし、林道もわかりやすいから、美代子がそこで俺たちが筍を取って降りて来るのを待てるというなら、そこまで連れて行く。嫌なら一人で帰れ」
「美代子、待ってる。待てる」
 欽一が美代子を飽くまでも帰そうとするなら、恭太は、筍を諦めて連れて帰ろうと思っていた。美代子を1人で帰すのは可哀そうだった。林道は冬の間使われていなかったこともあり、細くておぼつかない。自分でさえ林道から外れないように目を真ん丸にして道を確認しているのに、8歳の美代子に出来るはずがないと思った。
 欽一が笹藪を目指すのをみて、恭太は美代子を促し、自分の前を歩かせた。美代子が気になりすぐ後ろをついていく。顔にバシッと笹が当たり目に入った。目をしばたたきながら必死に美代子の後ろをついていくと間もなく歓声が聞こえた。
「うわぁー、広い。花がきれい。椅子もある」
 美代子は、椅子と呼んだ両手を広げたほどの幅のある倒木によじ登る。倒木の周りには白い小さな花をつけた植物が生い茂っていた。先週来たときはまだあちこち雪が残り緑も少なかった。雪解け水の流れもあり、全体が湿ってじくじくしていたが、様変わりしていた。
 花咲く植物は少し下った湿地にも群で咲いていた。見上げると青空が木々の若葉に円く囲われている。 欽一が、入ってきた林道のそばの樹の、届く限り高いところに、リュックから出した白い布の紐を結びつけた。
「2時間ぐらいで戻るからここから出るなよ。林道の口に印をつけたから、もしなんかあっても1人で帰れる。俺たちはこれから少し上へ林道を進んで、筍山の方に外れるから。ついて来られないからな」
「この飴をなめ終わり、学校で習った歌を全部唄って、もう1個飴をなめ終わる頃かな。お日様が丁度真上になるまでには帰って来るからね」
 恭太は美代子の口に飴を一個入れ、手にもう一個持たせた。
「この茂みから出るなよ。待ってろよ」 
 欽一は念を押し、自分の飴を2つとも美代子に持たせた。
「飴はポケットに入れて置け。無くならないうちに戻るから」
 飴をほおばって返答ができないので一生懸命頷いた。

 振り返り、振り返りして恭太が笹の陰に消えた時、美代子は少しばかり心細くなった。家から兄たちを追って、小走りについていく間は夢中で、森の暗さも土の滑りやすさも気にならなかった。ひたすら、置いて行かれぬように後を追った。見つからないように気配りさえしていた。
 兄たちの足音が聞こえなくなり、完全に1人になると、風が梢を鳴らしたり、枯れ枝が落ちたり、小さな音が響くように聞こえる。
 飴がなくならないうちに唄い始めた拍子に、唾液でむせた。飴玉を掌に出し、咳をした。涙が出るほむせ込み、顔が熱くなった。むせ止むと、鼻水と涙をアノラックの袖で拭った。辺りを見回し、飴玉を口に戻し掌をなめた。
「兄ちゃん」
 さほど大きな声では呼んでいなかった。口の中でもごもご兄を呼んでいた。自分の声がやむと、辺りの様々な物音が大きく聞こえる気がした。
 小さくなった飴玉をかじり飲みこんでしまうと、唱歌を唄い始めたが、声を聞きつけて何かがやってきたりはしないか、そばで誰かが聞いているのではないかと心配になり、だんだん小声になり、唄うのをやめてしまった。周りを見回しても何もいなかった。
「兄ちゃん。恭太兄ちゃん」
 もしかしたら、聞こえるところにいるかも。兄を呼ぶたびに耳を澄ましたが、聞こえるのは森のかさかさ、がさがさという音だけだった。
 恭太の言うとおりに、再び唱歌を歌おうとしたが、思い出せなかった。習った歌が、頭から消えてしまった。さっきの歌も口から出てこない。
 美代子は倒木から飛び降りた。欽一が付けた白い紐が眼に入った。あそこを通れば家へ帰れる。でも、もう二度と森へは連れて行ってもらえないだろう。ここで待っていればこの次からは一緒に森に入れるかもしれない。 
「欽一を初めて森に連れて行ったのは5歳だった。その頃から方向感覚もいいし、度胸もあった。1人で水源のゴミを取りに行くのが仕事になったのは1年生の時だ」
 先日、父親が大阪から来た親戚の人に話していたのを思い出した。
「親の自分がいうのも変だが、大した教えなくても、太陽の方向や樹の枝の張り方で、方角が解るのか、迷ったことがない。いつも安心して連れていける。今なら、イルムケップはあいつの庭みたいなものだ」
 美代子はそのそばで「自分にだって出来る」と父に訴えた。
「美代子には無理だ。お前はお母さんの手伝いを覚えろ」
 森へ行く許可はもらえていない。ここで帰ったら、お父さんやお母さんにも叱られる。
 美代子は倒木に戻った。少し高くなった陽が当たり、倒木の上はポカポカと暖かかった。美代子は倒木の上で仰向けになった。陽の温かさがアノラックを通ってくる。背中全体が温まり、空の青さがまぶしくて目を閉じた。

 眼が覚めた。喉が渇いていた。美代子は、自分が森の中に1人でいることを思い出すのに時間がかかった。自分のアノラック姿と、手袋と、ポケットの飴玉が、森にいることを教えてくれた。
『兄ちゃんはどうしたのだろう。自分が寝ている間に、帰っちゃったんだろうか』
 美代子には今が何時ごろなのかもわからない。太陽は真上にあった。
「兄ちゃん。恭太兄ちゃん。おーい。おーい」
 兄を呼び始めると、声がだんだん大きくなる。耳を澄ましても何も聞こえない。急に不安が増して倒木に立ちあがった。方角が全く分からない。白い紐が眼に入った。
『林道だ。兄ちゃんたちはもう帰ったのかもしれない。美代子も帰ろう。暗くなったら大変だ』
 美代子の心の中はあわてて騒めく。倒木から降りて駆け足で林道へ入る。笹を両腕でよけながら走る。背の低い美代子の目に、林道はくっきりと見える。このまま下って行けば家へ帰れる。
 息を切らして三部の小屋にたどり着いた。水源地へは父親におぶさって何度か来ている。少し安心すると、ひどい喉の渇きを覚えた。沢へ降りて水を飲もうとした。北向きの下り坂はまだ濡れていた。美代子は尻餅をついて、そのまま滑り落ちた。
 尻と背中に激痛が走った。水を飲むために立ち上がることができなかった。泣きべそをかきながらじっとして、痛みが引くのを待った。

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