読書感想

 チェーホフの短編集『かわいい女・犬を連れた奥さん』から『往診中の出来事』という短編を読んだ。いわゆるロシア文学と言われるもので、これまで生きてきた中で全く触れたことのない文学であり、どのような特徴があるのかでさえも定かでないものであった。以下は作品の感想とする。

 『往診中の出来事』は、田舎へ往診に行く医師のコロリョフの視点から物語が展開する。患者は工場の経営者の娘であり、診察をしても特に異常は見当たらなかった。娘の母親は娘が苦しんでいる原因がわからず、ひどく絶望している。娘の家庭教師は、この家の中で一番教養があるという自負心から医師であるコロリョフに原因や対処療法を押し付けがましく述べるが、コロリョフはそれに退屈する。異常がなかったため帰ろうとするコロリョフを母親が涙ながらに引き止め、仕方なしに一晩泊まっていくことになる。敷地を散策していると、労働者たちが働く工場に目が止まる。コロリョフはこの工場を悪魔に例え、資本主義社会がもたらす格差について考えを巡らせていた。すると突然、工場から聞くものを不快にさせる金属音が響き渡る。夜警が時刻を知らせるために鳴らしているものらしい。家の中に戻り娘と話していると、体調が悪い原因はただ不安で恐ろしいだけと娘は言う。娘も悪魔(=工場=資本主義社会)の存在に気づいており、体を回復させるためには多額の財産を捨て、悪魔と手を着ることが必要であるとコロリョフ同様に考えていた。しかし一歩踏み切れず、信用のおける人間がその考えを支持してくれるのを待っているのだった。コロリョフは思い悩み、言いたいことを間接的に伝えた。翌朝、コロリョフはまだ何か言いたそうな娘に別れを告げ、帰るのであった。別れたあとは雲雀の歌や、教会の音が聞こえるなど明るい表現で物語を締めくくっていた。

 まず『往診中の出来事』の主人公であるコロリョフの人物像については、良い意味でも悪い意味でも人間臭い印象を受けた。
 作中ではリャリコワ夫人の容姿を見て「顔つきから判断すればあまり教養のない素朴な女(P.84)」と感じたり、患者のリーザを診察するために部屋に入ったときには「不器量で、母親に似て目が細く、顔の下半分が不釣り合いに発達していて、(中略)お情けでここに匿われている不幸な貧しい娘といった印象(P.85)」と心の中で感じたこととはいえひどい言いようだった。かと思えば、リーザが泣き出した場面では「娘の姿全体も均整のとれた、女らしい、素朴なものに見え、もはや薬や医者としての指図によってではなく普通の優しい言葉でこの娘をなだめたいという気持が湧き起った(P.86)」と読む人によれば、コロコロと言うことが変わる調子のいい男という感想を抱くだろう。しかし個人的にはコロリョフは正直で人間臭く共感できる人物であるとの印象を受けた。
 また、作中で主人公コロリョフと自分自身も似たような経験があった。コロリョフは工場を見るたびに「手のつけられぬ無知蒙昧と、始末に負えぬ経営者のエゴイズムと、労働者の健康をむしばむ労働と、喧騒、ウォッカ、油虫、といった状態に違いないと思う(P.83)」と、工場に対する偏見に近い考えがあった。しかし、コロリョフ自身は工場について書いたものを読んだことや、工場の経営者と少し話をしたことがある程度で、実際に足を踏み入れたことはなかった。自分自身の経験と置き換えると、肉体労働とされる鳶職のような現場で働く建設業の人たちは、不良やヤンキーなど素行が悪い人が多いという印象をなんとなく持っていた。しかしコロリョフと同じように実際に働いている人と話をしたわけでもなく、勿論そこで働いたこともない。ここに妙な親近感を覚え、共感したことがコロリョフに悪い印象を持たなかった要因であるように感じた。
 コロリョフは資本主義社会によって生じる格差について悪魔を例えに引き出し、考えを巡らせていた。「弱肉強食は自然の法則だというが、それは新聞記事や教科書の中でのみ理解でき(中略)、人間関係の織りなす些末事の絡み合いの中では、それはすでに法則どころか論理的矛盾であるにすぎない。(P.95)」と述べていた。これは資本主義を根底として、本来強者(搾取側)であるはずのリャリコワ夫人が娘の病気の原因がわからず絶望におそわれていることや、財産の相続人であるリーザがこれから財産を相続しなければならないという強者側に立つ不安から体に支障を及ぼしている。唯一満足そうである家庭教師でさえも、医師であるコロリョフに対して、リーザの病気の原因や対処療法を押し付けがましく述べたりするなど、無意識のうちに強者側の立場に立つための努力をしていることが、コロリョフの「彼女はここでは傀儡に過ぎないのだ。(P.94)」という文に表れているような気がした。このように自然の摂理であるはずの弱肉強食の強者側が苦しむという矛盾がここでは生じている。この矛盾から抜け出すには、多額の財産を捨て、悪魔(資本主義)から手を切らなければリーザの体調は治らないということをこの家の中ではコロリョフと、リーザのみが気づいていた。
 私がコロリョフと同じ立場であれば、「財産を捨てなさい」と夫人と家庭教師に単刀直入に言うだろう。そのほうがリーザのためにも母親のためにもなると思うからだ。しかしそれはコロリョフに言わせれば「そんな話を始めれば、話は決まって照れくさい、間のわるい、長たらしいものになるのである(P.100)」らしい。コロリョフはリーザが家の中で唯一悪魔の存在を感じ取る知的な人間であり、誰からの支持がなくとも自分自身で不幸の源である財産を捨てるという決断ができると考えた。そして、楽観視とも取れる話をリーザへ伝えるという結論に至ったように感じた。それが「そもそも何かを言う必要があるだろうか(P.100)」や、「あなたは魅力的なすばらしい方です。(P.101)」などの発言、物語の終盤の「雲雀の歌や、教会の鐘の音が聞えた(P.102)」と、悲しげにコロリョフを見つめ、何かを言いたげな表情を浮かべるリーザとは対照的な表現に上述のような気持ちが感じ取れる。
 この短編で一番哀れなのは家庭教師のフリスチーナ・ドミートリエヴナだと個人的には思った。蝶鮫を食べ、マデーラ葡萄酒を飲み、一見満足な暮らしをしているように見える。しかし、悪魔と手を切るためにリーザが財産を捨てるという決断をした場合、雇われている身である家庭教師のフリスチーナ・ドミートリエヴナは一気に強者側から弱者側に立つかもしれない。「教養のない人たちにも情はありますのね(P.91)」などの発言から自分自身を強者側であると無意識に自負しているため、その決断に1番衝撃を受けるのは家庭教師ではないかと感じ、哀れであると思った。
 『往診中の出来事』が書かれた1898年のロシアでは、産業資本主義の流入によって、旧来の社会秩序や共同体が急速に解体されつつあった。さらに資本主義経済の発達に伴い、資本家と労働者、都市と農村の格差が拡大し、生活に困窮する人々が増加していた。まさに時代の変わり目であり、『往診中の出来事』は時代背景に沿った物語であるということがわかった。
 また作者であるチェーホフについても調べてみると、チェーホフ自身も資本主義経済を批判していたらしい。作中の主人公であるコロリョフと自身を重ねて、子どもたちの世代では問題は解決され、暮らしは良くなるはずとの主張をしていたようにも思える。

 この短編で私が素晴らしいと思うのは、結末をはっきり描かず、読者に結論を考えさせるようなラストをしていることである。リーザはどうなったのか、なぜリーザにあのような伝え方をしたのかなどは作中では書かれておらず、たった21ページの中で人間関係や、貧富の差など様々な問題提起がされている。また私が年齢を重ねて、再度この短編を見ても今回読んだ感想とは違ったものが出てくるような気がする。物語を読んだあともあれこれ考える余韻が残されていることに、チェーホフの意図を感じた。


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