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第6回 桓武天皇の苦悩(1)

直接『伊勢物語』には関係ないのですが、業平の外祖父に当る方ですし、やはり平安京を造られた天皇という事で桓武天皇を採りあげたいと思います。

桓武天皇は偉大な天皇ですが、特に後半生ずっと怨霊に悩まれていました。
737年、山部王(桓武天皇)は父・白壁王(29歳)、母は渡来系の高野新笠(たかのにいがさ・年齢不詳)の元に生まれました。
白壁王は天智天皇の末の皇子・志貴皇子(しきのみこ)の子です。壬申の乱以来、皇統は天智系から弟の天武系に移りました。しかし頼朝の様に敵の子を根絶やしにするという事はなく、天智系の何人かの皇子もひっそりと生きていたのです。

白壁王も天智系として、ひっそりとそして警戒されない様に、いつも酒に酔っていたふりをしていたという事です。
時は聖武天皇の時代。しかし山部王が生まれた年は天然痘が大流行し、藤原四兄弟がその年の内に次々と亡くなると言う事で、37歳の聖武天皇は大錯乱に陥っていました。同い年の光明皇后が天皇を支えていました。
そしてお二人には皇子がいたのですが、生後1年で亡くなり、そのため奈良に遺る仏像は幼児や少年の顔が多いといいます。(阿修羅像など)
後嗣の心配も相まって翌年1月、二人の間に生まれた皇女・阿倍内親王(21歳)を異例の初の女性皇太子にします。聖武天皇からの生母が藤原氏を守るためでした。そして「鎮護国家」の元に東大寺に壮大な廬舎那仏を造る運びとなります。

聖武天皇は阿倍内親王に譲位し(孝謙天皇)、952年ついに大仏の開眼供養が行われ、4年後聖武上皇は崩御します。山部王は20歳になっていましたが、なかなかの若者になっていました。
聖武上皇は県犬養腹の井上(いのうえ、いがみ)内親王(孝謙天皇より1つ上)を政争に巻き込まれる心配のない(とその時思っていた)白壁王に嫁がせます。そして754年、白壁王(45歳)と井上内親王(38歳)に酒人女王が生まれます。(後に異母兄桓武天皇の妃になっています。更に生まれた朝原内親王というのはまた異母兄の平城天皇の妃になっています。近親結婚が当り前だったんですね)

ところで日本の女帝は独身でなければならず(未婚か未亡人)、即位してからの結婚は許されません。(これは現代日本にまで持ち越された問題です)
その頃権力を持っていたのは光明皇后の甥の藤原仲麻呂で、聖武上皇が遺詔した皇子を辞めさせて、自分の亡き息子の嫁の婿になったー言う事をよく聞く大炊王を皇太子にしました。
そして孝謙天皇を譲位させて、大炊王を淳仁天皇として更に権力を振るいます。
しかし760年光明皇后が亡くなると事態が変わってきました。
761年、孝謙上皇は近江保良宮で療養していました。そしてそこの護持僧のインテリで美男(?当時62歳ほど)の道鏡という僧侶をとても信任します。(サンスクリット語も話せたというから相当なインテリだったのでしょう。看病も得意。ただどこまで親密だったかは俗説にひどい話もありますが謎。でも結婚を禁じられた女性が恋してもいいと私は思います)
仲麻呂は淳仁天皇に道鏡との事を忠告させます。ところが孝謙上皇が激怒。「聖武天皇と光明皇后のただ一人の直系の子」というプライドが成せたのでしょう。軍事力も奪ってたちどころに仲麻呂を滅ぼします。すぐに負ける所を見ると仲麻呂もすでに人望がなかった?
淳仁天皇も淡路に流刑となり、逃げだそうとして殺されたという事になっています。

※あちらこちらに話がいって、「苦悩」まで辿り着けませんでした。続きはまた明日↴

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