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第54回 源広綱、有綱

今年の9月下旬に、拙著『平家物語誕生~「鎌倉殿の13人」の舞台裏』の説明と宣伝を兼ねて、知人よりnoteを勧められて始めました。翌月にはまた拙著『源氏物語誕生』の説明も始まり、今やこのnoteが新たな生き甲斐となっています!また載せるからには間違えてはいけないので、年代の確認など調べ直している内に新しい史実とも出会えました。この歳になっても、知識が増えるのは嬉しい事ですね!!

さて、前回の「源範頼」を調べ直している内に源広綱そして有綱と出会いました。広綱はあの摂津源氏・源頼政の末子、有綱は頼政の長男仲綱の子です。
1190年11月、頼朝が上洛して大納言に任じられその拝賀の式に前駆を務めたのが範頼でした。ところが広綱は自分が選ばれると思って失望し、一行が鎌倉に帰る日の朝、出奔したというのです。摂津源氏の嫡流だから選ばれると思っていたのでしょうか?
 翌年6月、神護寺にいた文覚(よく出てきますね)が、広綱が遁世して上醍醐にいると鎌倉に報告します。息子がいて土御門天皇に仕えたという記録がありますが、子孫の方は後で述べます。

有綱の方は頼政の孫ですが、頼政は1180年5月、77歳で、以仁王と共に打倒平家で謀反をします。頼政は摂津源氏と言って、遠く源満仲の長男頼光が摂津源氏、次男の頼親が大和源氏、三男の頼信が河内源氏となりました。結局、河内源氏が有名となって義家や義朝が出ます。
よく頼政は1159年平治の乱で、義朝を裏切ったという話があります。しかしこの時、頼政は二条天皇に仕えていたので最初は信頼・義朝連合に与していましたが、信頼の人望の無さに周囲が二条天皇を平清盛方に脱出させたので頼政も同行したと思うのです。
けれど義朝が家来に殺され、河内源氏が滅亡寸前になるのに、同族の源氏の頼政が清盛から庇護され、破格の三位まで与えられているのを世間の人は良く思っていませんでした。更に長男の仲綱が愛馬を平宗盛に取られ打擲し侮辱された事から打倒平氏になったと『平家物語』は伝えています。
しかし当時は平家が絶大な権勢を誇っている時。勝ち目は薄いと思った頼政は末子の広綱、孫の有綱を領国である伊豆に避難させます。同じく伊豆にいた頼朝の事も頭をかすめたでしょうか?広綱も有綱も生年が分からないのですが、仲綱が55歳ですのでこの時20代後半くらいだったでしょうか?

結局頼政も仲綱も討ち死にしますが、8月に頼朝が挙兵し広綱と有綱の二人は頼朝の軍に入ったものと思われます。
ここで有綱の話を。有綱は源義経の軍に入り、二人は同年代で仲も良かったと言われます。そして有綱の蘭を見ると、「義経の婿」となっています。義経の娘は奥州で4歳で父母と共に亡くなりました。また男子は静御前が産んだもののすぐに鎌倉の海で殺されています。他に男子が1人いたという説もありますが・・・
ここで婿というのは「聟」とも書き、こちらは妹の夫という意味です。有綱は常盤御前が再婚した一条長成との間に娘を儲けています。そちらと結婚したのではないでしょうか。
しかし義経が頼朝から1185年11月に追討の身となり、翌1186年6月13日に常盤と娘は鎌倉方に逮捕され、その後の行方は分かっていません。
有綱も同じ6月16日に大和で北条方に打ち取られたとあります。

常盤の最期はいろいろ説があって、例えばNHKの人形劇『平家物語』では宇治川の戦いに来た義経に会いに行こうとして行き違いになり、大津で強盗に会って絶命したとなっていました。戦国時代の荒木村重の子で画家の岩佐又兵衛が描いた『山中常盤物語』では奥州に逃げた義経に会いに行こうとしてやはり盗賊に襲われて惨殺される常盤の姿が描かれています。又兵衛自身も幼い時に母を信長の家来に殺されていたのです。

広綱の子孫に戻って、太田氏となって上杉氏に仕え、何とまた戦国時代も太田道灌が出てきます。江戸城を築城した人で殺されたとかくらいしか知識がなかったのですが。やはり賢い人だった様で、室町幕府のあのお騒がせ将軍足利義政(室町幕府の将軍はだいたいお騒がせ?)とは同年代だったという事がまた新鮮な驚きでした。逸話があって、義政に謁見しに行く時、義政が飼っている猿がいて、それが臣下に引っ掻いたり往生していたのですが将軍の猿なので誰も手出しできません。
道灌は事前に猿の飼育係りに賄賂をやり、目の前でとことん打ち据えさせます。謁見当日、義政の横にいた猿は道灌を見るなり、怯えておとなしくしていたそうで、他の人々も後で事情を聞き、なるほどと道灌の賢さに感服したそうです。そういえば豊臣秀吉も信長の死後の清州会議で、信長の直系の孫の三法師(3歳)に事前にお菓子などをあげて手なづけていたとの事。更に脱線ですが、その三法師はその後どうなったのか知らなかったので調べるとあちらこちらに利用されるのですが、元服して秀信となり大名(20万石の時と13万石の時あり)になりキリシタンにもなります。そして21歳の時、関ヶ原の戦いで西軍についてしまいます。それも当初は家康に付いて行く予定だったのが軍装が手間取って遅れ、その間に石田三成から誘われたというのです。
敗北して死刑になる所を信長の直系の孫と言う事で周囲が懇願し、出家します。そして高野山に送られるのですが、高野山は比叡山と同じく信長から焼き打ちを受けた身。激しい報復が待っていました。結局26歳の時、下山して病死とも自死とも言われ亡くなりました。子供を称する人がいるそうです。

太田道灌ですが(脱線してスミマセン)、余りの才智そしてどうしても権勢を持つので周囲から妬まれ、あろうことか主君の上杉氏からも疑われ、風呂場から出てきた所を槍で殺されてしまいます。享年55歳。
いろいろな人生がありますね。

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