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第115回 後一条天皇崩御、後朱雀天皇即位後の悶着

長元9(1036)年になり、生来病身であった後一条天皇はついに4月17日、29歳で崩御します。
生母・彰子(49歳)の哀しみは深く、「ひと声も君に告げなんほととぎす この五月雨は闇にまどふと」-一声だけでも、亡き我が君に告げてほしい。ほととぎすよ、私はこの五月雨の夜、「子を思う闇」に惑っているとーと詠みます。
ほととぎすは時鳥と書きますが、死出の山を越えると信じられていたので、彰子は亡き我が子への伝言を頼んだのです。

しかし時代は移っていかなければなりません。年子の弟・東宮が7月、後朱雀天皇として盛大な即位式を行いました。そして彰子の亡き妹・嬉子が産んだ親仁親王が12歳で新東宮になりました。乳母の賢子もそのままです。

後一条天皇の崩御で一番打撃を受けたのは后の威子(38歳)でした。9つ下の甥との結婚でしたが、当時としては珍しく一夫一婦で、深い愛情を感じていました。皇子は生まれませんでしたが、皇女2人が遺されています。
威子は返らぬ嘆きを繰り返して病床に臥し、崩御して5カ月後の9月に後を追うように亡くなってしまったのでした。

生まれる命もありました。頼通にとって初めての姫が、隠れ妻・祇子に生まれたのです。ただ、その寛子という姫が入内するには十二~三年は要します。そして頼通は、養女にしている敦康親王の忘れ形見・嫄子(もとこ:21歳)の後朱雀天皇への入内を大宮・彰子に打診しました。
彰子は養子・敦康親王が失意のまま20歳で亡くなってしまった事を常に思っていました。一条天皇と皇后定子の皇子。義理ではあるけれど息子が果たせなかった天皇になるという夢を嫄子が皇子を産むという事で実現できればいいと思いもちろん承諾しました。それが現在妃となっている姪の禎子内親王(24歳)を傷つけたとしても。

後一条天皇の喪があるのでその年は見送られ、翌年正月7日、嫄子は養父・関白頼通の後ろ盾で華々しく入内してきました。秘かに彰子の後援もあります。
2月に禎子内親王は中宮に冊立されますが、4歳の尊仁親王を連れて宮中を出て、閑院に引きこもってしまいます。皇女2人はそれぞれ幼いながら、伊勢の斎宮・斎院と引き離されています。
「ちょうど『源氏物語』の女三宮が降嫁してくる時の紫の上の心境かしら・・・」尊仁の面倒を見ながらも孤独に涙する禎子内親王の元にある公卿が訪ねてきました。
反主流派の能信です。「中宮、心配なさいますな。この能信が命を懸けて中宮と尊仁親王様をお守りいたします」
能信の言葉を内親王はどんなにか力強く感じた事でしょう。

3月に禎子内親王は皇后、嫄子は女御から中宮に昇りました。そしてまもなく嫄子は懐妊します。嫄子がもし皇子を産めば、尊仁親王を差し置いて、頼通は次の東宮にしようとするに違いありません。彰子の味方は期待できませんでした。(続く)

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