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第8回 桓武天皇の苦悩(3)

私が、山口県下関市の王江小学校(今は統廃合)の6年生だったから1967年という大昔でしょうか、図書室の歴史の本の中で「光仁天皇と井上皇后が双六で賭けをして、負けた天皇が、山部親王を差し出した」というのがあって、挿絵もあって、児童向けにはかなりショッキングな内容だったので今でも覚えています。
昨日また調べるとネットにありました。百川がもともと提案者で、井上皇后が負けたら美女を差し出すと。天皇が負けた時、最初は百川が差し出されそうになったのを山部親王にしたというのです。そして仲が良すぎて天皇が不快に思いそこから夫婦仲が悪くなった・・・
出典までは書いてませんでしたが、嘘か本当か分からない、平安のゴシップ集はたくさんあってその中の1つでしょう。(文春はじめ今も昔も人はゴシップが好きなのですね・・・)
『愚管抄』にも殺された井上皇后が龍となって刺し殺にくるという夢を百川は何度も見て、光仁天皇も見ていたというのが書いてあり、鎌倉時代でもこの怨霊話は有名だったのですね。

37歳で皇太子となった山部親王の元に百川の姪の乙牟漏などの妃が入ってきて774年には小殿(おて、後に安殿ーあて、平城天皇)親王が第一皇子として生まれます。それまで女性の記録がないのが少し不思議ですが。
やがて続々と桓武天皇には皇子女が計35名以上生まれています。
途中まで子供が全然いないのに、後からどんどんできるというのは歌人の俊成も子供ができなくて甥の寂連を養子にした後たくさん実子ができて、寂連はその名の通り(出家の名前は後からでしょうが)寂しく去ります。
また余談で申し訳ないですが、「W(ワンダー)3」という手塚治虫氏の作品があって(宇宙から来た3人が動物に姿を変えて活躍する話。これも私の小学生期)その中の「カノコ」という少女が養女だったのですが、その後21人も生まれていたのを周囲が驚くという設定に笑止しました。

さて、井上内親王と他戸親王が獄死した年に、他戸親王の同母姉で22歳の酒人内親王が伊勢の斎宮を下りてきて(身内に不幸があった際など交代)そして山部親王の妃になっています。当人同士も周囲もどんな心境だったのでしょうね。ちなみに井上内親王も同母弟の安積(あさか)親王が17歳で急死し(仲麻呂の毒殺と言われます)、11歳からいた伊勢の斎宮から28歳で帰ってきていまうす。

井上内親王の人生も、考えてみれば伊勢の斎宮に指名されたのが5歳といい、厳しい潔斎(飲食以外全ての事が禁止!)を経て、11歳で伊勢に行き、戻され、白壁王と結婚して1男1女を儲け皇后となったものの、僅か1年余で入獄。そして59歳で我が子と共に獄死と。
これは怨霊になってみ仕方がないですよね。冥福を祈ります。

やっと次回から桓武天皇を苦しめた(って多少自業自得の面があるのですが)、もう1人の怨霊、早良(さわら)親王について述べたいと思います。
なかなか進みませんね(笑)


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