見出し画像

第75回 周囲の塩対応と道真の抜擢

寛平3(891)年1月の基経の死により、宇多天皇(25歳)はやっと東宮御所から禁中清凉殿に入りました。2月になって初めて宇多天皇がやった事は文章博士藤原佐世(45歳)の左遷でした。「阿衡(あこう)は閑職」と基経に要らぬ知恵をつけた学者です。哀れ、佐世は陸奥へと追いやられます。

しかし宇多天皇は周囲の態度の変化に気がつきました。眼の上のたんこぶだった基経が居なくなってやれやれと思っていたのに、今度は左大臣源融(70歳)以下の群臣たちが疑惑の冷ややかな目で見る様になってきたのです。
それはまるで「基経殿と一体どんな取引をして帝位についたのですか?」と無言の圧力をかけているようです。
宇多天皇自身も細かい事情は知りませんでした。しかし陽成天皇退位、そして養母尚侍淑子が何か関係している事は分かりましたし、周囲もそう見ていました。特に源融は、賜姓源氏である事を理由に帝位を所望した時に基経から罵倒されたのに、自分は一旦源氏となったのに帝になっています。中納言には叔父源光(47歳)もいて怪訝な表情をしています。

「これなら基経がいた時の方が良かった・・・」基経は良くも悪くも宇多天皇の庇護者だったのです。
「誰か有能な味方を作らないと・・・」宇多天皇の脳裏に浮かんだのは菅原道真(47歳)でした。阿衡事件の時、敢然と権力者基経に意見した人物です。
宇多天皇は早速道真を呼び寄せ、2月29日、蔵人頭(秘書官長)に任じます。
「有難き幸せ」道真は平身低頭し、宇多天皇もほっとします。しかし周囲は今度は道真に嫉妬していくのでした。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?