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第106回 永井路子先生追悼。生命の交替

昨日、永井路子先生の訃報を知りました。97歳という事で私より30歳ほど上だったのですね。中学の頃、NHKの「歴史探訪」で杉本苑子先生と歯切れの良い解説をされて憧れていました。永井先生の講演は2回行かせて貰いました。1度目は大阪。そして2度目は京都の智積寺で、休憩の時に意を決して、拙著『源氏物語誕生』を手渡しする事に成功しました!先生は「まあ素晴らしい!」と(もちろん社交辞令でしょうが)仰って下さって嬉しかったです。対峙する先生はとても小柄だなあと思いましたが、檀上に立つと大きくてオーラがありました。
ここ何か月か、年末の『太平記誕生』発行に向けて、永井先生の「太平記解説」のCDをずっと車の中で聴いています。もう何百回聴いたでしょうか?著作では、今もこのnoteで注目している高松方の能信を主人公とした『望みしは何ぞ』です。もちろん永井先生の足下にも及びませんが、読んで良かったと思える歴史小説を目指していきたいと思います。ご冥福をお祈りします。

さて、万寿2(1025)年も摂関家では生命の交替が行われました。正月10日、頼通(34歳)の側室は男子通房を産み、摂関家の後嗣ができたという事で道長夫妻などは大喜びでした。頼通の正室で子のいない隆姫には居心地が悪かったでしょうが。
3月11日には東宮妃嬉子(19歳)の懐妊が分かり、道長は二重の喜びに浸りました。
しかしここから暗転します。まず同じ3月25日に小一条院の生母・娍子が54歳で亡くなります。これに衝撃を受けたのが小一条院の二番目の妃・寛子(高松方)でした。最初の妃・延子は捨てられた嘆きで吐血して亡くなりました。延子の父顕光も4年前に亡くなり、二人は死霊として道長家に祟ると言われていました。そして娍子は相談もなく我が子が皇太子を辞退させられた事を恨んでいました。女房が通う道も塞いで妨害したのです。
寛子はかつて我が子が病死した事もあって、もともと病身だったのが、ついに寝込んでしまい、そして7月9日、27歳の若さで亡くなります。道長の自慢の6人の姫の内、最初の死でした。

そして翌8月3日、東宮妃嬉子は皇子を出産してまた土御門殿では彰子の時の様に大喜びしました。しかし嬉子は現在の麻疹に感染しており、僅か2日後に亡くなりました。連続する娘の死に道長は嘆きます。
ここで大宮彰子は冷静でした。すぐに賢子を皇子親仁(ちかひと)の乳母に任じました。賢子は前年女児をしていたので。授乳は別の女房がするので母代りでした。賢子は親仁親王が後冷泉天皇となって44歳で崩御するまで仕えます。
尚、11月11日には和泉式部の娘・小式部内侍が藤原公成(27歳:太政大臣公季の孫)との男児を産んだ後、同じ27歳(?)で亡くなっています。
母の和泉式部は悲しみ、千首もの哀傷歌を詠んだと言われています。
「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」-子供たち(他に2人いた)と私を置いて死んでしまって、娘はいったいどちらを哀れと思っているだろうか。きっと親である私よりも、子供たちの方を愛しんでいるだろう。親より子と死に分かれる方が私も辛いー

いろいろな誕生と逝去を知り、その年は暮れていくのでした。(続く)

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