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第69回 姫の前とその子孫

前回「伊賀の方」を採りあげたので、今回は前妻「姫の前」を。
姫の前は、比企朝宗の娘であの比企の尼の孫娘と言われます。
大変な美貌の持ち主で、頼朝の邸に仕えていましたが、政子の目が光っているので頼朝も手出しはできません。

政子の弟義時の懇願で、1192年9月、姫の前は30歳の義時に嫁ぎます。姫の前の生年は分かりませんが、20歳前後?その2カ月前に頼朝は念願の征夷大将軍になり1か月前には次男(実朝)も生まれ鎌倉はお祝いムードだったでしょう。義時には前の妻(阿波の局?八重さん?)との間に10歳の金剛という男児がいました。
翌年に姫の前は男児(朝時)を、1198年にはまた男児(重時)そしてその後に姫(竹殿)を産みます。

幸せな姫の前の筈でしたが、1203年9月北条と比企の戦いが勃発。比企氏はほとんど殺害されます。
これで姫の前は結婚11年で義時と離別し、子供3人を鎌倉に残して京へ旅立ちます。
美貌のせいか、京で、源具親という公卿の妻となり、1204年には男児(輔通)を産んでいます。
しかしやがて病となり、1207年3月、姫の前は亡くなるのでした。
拙著『平家物語誕生』では義時の命を受けた、源光行が、京の姫の前を見舞いに行き、そこで「実は頼朝公は、頭の良い貴方を家来にするためにわざと貴方の父上を捕えさせた」という秘密を聞く事にしました。光行が鎌倉方を離れて後鳥羽上皇の家来になるという流れです。

朝時は本来なら自分が執権の後継者であるのにと思っていましたが、異母兄の泰時が聡明で、朝時は20歳の時、将軍実朝に仕える官女の局に忍び込んで、怒った義朝から一時義絶されたりしています。
その後復帰して祖父時政の名越の館を貰って「名越流」となり泰時の子孫の得宗家に継ぐ存在となりました。
しかし朝時の子孫は、しばしば宮騒動や、二月騒動で問題を起こし、得宗家に反対する動きも取っています。ところで二月騒動で誅殺、後で無実と分かった、朝時の次男時章の子孫が俳優のあの高倉健さんだと今回知ってビックリ!ご本人も鎌倉に来た時は墓参りをしていたそうです。

次の弟の重時は聡明で、六波羅探題を長く務め、また5代執権時頼の連著となって助け娘は時頼の後室となって時宗を産んでいます。
重時の次男・長時はやがて執権を務め、その子孫は赤橋家となり、赤橋家から登子が足利尊氏の妻となって義詮を産み、代々室町幕府の将軍となっていき、現代でも子孫が残っています。

娘の竹殿は最初大江広元の息子親広に嫁いでいましたが、京都守護だった時、承久の乱で断りきれずに後鳥羽上皇側に付きその後出奔しています。(だいぶ後に発見) 竹殿は、土御門通親の四男定通と再婚し、男児を二人儲けています。(どちらも出家)
定通の姪の子に当たる後嵯峨天皇の擁立には竹殿も尽力しました。

歴史の運命に翻弄されて、愛する子供たちと別れ、若くして亡くなった姫の前でしたが、子孫たちは歴史に彩りを与えています。

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