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第128回 高倉天皇の煩悶

清盛は、自分を裏切った藤原成親を許す事ができませんでした。
「あやつは平治の乱の時に賊軍の信頼につき、本来は死罪になる所を重盛の妻の兄という事で助けてあげたのに」
ふと清盛の脳裏に伊豆に流した源頼朝の顔が浮かびました。
「まさか、あやつも恩を仇で返す事はないであろうな」
しかし裏切れば滅ぼす自信が清盛にはありました。

その頃、高倉天皇は17歳となっており、女色に目覚め妃も召し抱えられていいました。政治を清盛と父の後白河法皇に握られているので、女色にしか向かなかったかも知れません。結局、満でいえば19歳で崩御するまでに后妃7人、4皇子3皇女を儲けられました。
清盛は高倉天皇の寵愛深い小督を宮中から追放していました。そして義理の甥である高倉天皇に奏上しました。
「まずは中宮(娘の徳子)に皇子がありますよう」
つまり徳子に皇子が生まれれば、小督を返してやろうと高倉天皇は解釈し、清盛もその積りでした。

しかし徳子の説得で、嵯峨野に隠棲していた小督をまた呼び戻す事を清盛は承諾しました。高倉天皇があまりにも傷心だったからです。何と小督は懐妊していました。11月に小督が皇女を出産すると、清盛は小督を出家させて再び嵯峨野に追いやりました。23歳の黒衣の美しい小督は立ち去り、高倉天皇はまたも無力を感じるのでした。

翌治承2(1178)年5月、ついに徳子の懐妊が明らかになりました。
清盛は狂喜し、高倉天皇は務めを果たした様に満足な表情をされたのでした。(続く)

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