見出し画像

第94回 敦康親王の死

10月22日に「この世をば」の得意絶頂の歌を詠んでから間無しの11月6日、道長は眼病となります。まるで迫害した三条天皇も同じ眼病になっていました。そして20歳の敦康親王が病に臥します。彰子はびっくり仰天します。

それでも11月15日には倫子所生の4番目の姫嬉子が尚侍となり、また12月9日には生き霊を怖れる寛子が皇女を産んだりして慌ただしく過ぎていきます。

その頃、敦康親王は危篤を迎えます。
思えば「后腹の第一皇子で東宮に立たなかった人はいない」と聞かされて、一体自分は何なのだろうと親王は思った事でしょう。そして道長の手のひら返しです。道長は彰子に皇子が産まれない内は敦康親王を丁重に扱いました。養子として権勢を振るうための保険です。優しく接した事でしょう。
私も昨年度、急に亡くなった人の代わりにという事で代理を頼まれ、そこの責任者の方2人はそれこそ毎日笑顔で、異常なくらい優しく接してくれました。でも私には分かっていました。3月が近づくと正規の人を雇えるから態度は変わるだろうと。その通りになり、想定内とはいえ、やはり寂しいものがありましたね。

敦康親王10歳の時に、彰子は敦成親王を産みます。そして道長は敦康親王への奉仕をやめました。翌年2番目の皇子が生まれると猶更です。
敦康親王は人情の厳しさを幼いながら感じた事でしょう。
そして東宮になる機会は3回ありました。そのたびに落選の哀しみを味わい、ついに親王は前途を悲観してしまったのです。人間、自分が世の中に要らないと思ってしまうと鬱になり身をむしばみます。

12月17日、敦康親王は彰子らの看病も空しく20歳で永眠します。数え3歳になる嫄子という女の子を遺して(もう1人いたという説もあります)。
嫄子は母の姉隆子とその夫頼通の養女となります。彰子の采配もあったでしょう。
そしてこんな時に彰子の支えになってくれるのは香子でした。彰子は香子を御所に呼びます。
実は翌月正月5日に、藤原実資が久々に彰子の元を訪れ、その応対を紫式部らしき女房がしたという記録があるのです。(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?