第14回 兼家の傲慢さいつから?(2)
兄兼通の命懸けの妨害で、関白になりそこねた49歳の兼家はさすがに落ち込んで邸から出なくなります。しかし彼はまだ運を持っていました。
新しく関白となった5歳年上の従兄頼忠は優しく、自分が太政大臣になると右大臣に50になった兼家を引き上げてくれました。更に亡き兼通がずっと停めていた、次女詮子の円融天皇入内も認めてくれました。先に頼忠の娘遵子が入内しており、正々堂々と勝負しましょうという事でしょうか。
しかし兼家の気持ちは違っていました。
「お人好しもいい加減になさるがいい」
詮子に皇子を誕生させ、摂政関白になる。その夢を兼家は捨てていませんでした。
そして権力の神は兼家に微笑みます。兼家52歳の時に、詮子がついに皇子を産むのです。(後の一条天皇)
そして亡き兼通の娘が皇后となっていたのが亡くなり、新しい皇后を決める事になりました。兼家はもちろん皇子を産んでいるので詮子がなると思っていたら、円融天皇は「詮子は皇子が即位したら皇太后となるだろう」と言って遵子を中宮(皇后)にしてしまいます。『源氏物語』でも「絵合」の帖でどちらが中宮になるか勝負みたいになって、六条の御息所の遺児・秋好む中宮に決定します。
兼家と詮子は落胆し、怒り、以後皇子を一切円融天皇に会わせまいとします。円融天皇にとってみれば一粒種の皇子(この子しか生まれませんでした。皇女もなし。今の天皇に繋がります)。ついに妥協して天皇は譲位し、懐仁(やすひと?)親王を5歳で東宮にします。
その2年後、花山天皇を騙して出家させたのは前に述べた通りです。
念願の摂政になったのは58歳。「本来なら44歳の時に関白になっていた」と兼家は思っていたでしょう。そして自分の子供たちへの滅茶苦茶な昇進を強行するのでした。普通、公卿の一番下の参議になるのにも30歳くらいまで待たねばならず実力をつけてからなのに、兼家は末っ子の道長を23歳で参議を飛ばして権中納言にしてしまいました。先例を引いた摂関家の子息の昇進は異常で、10代や20代での大臣を出現しました。まさに実力もない家柄だけの若造が政治をする事になり、結局は貴族の時代を終わらせ武士の時代になっていきます。
兼家は亡くなる少し前に関白を4日だけ務めます。長らくなれなかった関白になりたかったのでしょうね。それで後世には兼家は「摂政関白太政大臣」という最高位で遺ります。
ところで兼家は62歳で亡くなるのですが、後継者を長男の道隆とします。これには道兼は大立腹。「花山天皇を退位させ、我が家の繁栄を築いたのはまろじゃ」怒って父兼家の葬儀にも出ず、友と酒を飲んでどんちゃん騒ぎしていたそうです。(この章終わり)
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