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第32回 母・伊都内親王の死

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さて、貞観2(860)年1月後半、梅の咲く頃、業平が起こした高子との出奔は、京中の噂となりました。
業平は36歳。もう10年近く出仕していません。前にも言いました様に母の伊都内親王は財産家で、有名な「伊都内親王願文」の時にも多くの寄付をしていますから食べるには困らなかったでしょうが。それから阿保親王も「密告者」として死後に多くの領地が朝廷から出た様です。

この頃の歌ではないかと想像されるのが、第2段の歌ですが、しかしもう一度、地の文を読むと、女との後朝の歌なので違うかも分かりませんが、季節が合うので紹介します。
時は三月(やよい)のついたち・・・
「起きもせず寝もせで夜をあかしては 春のものとてながめ暮らしつ」-起きていたでも寝たものでもない状態で夜を明かし、そのまま春につきものの長雨に想いにふけって過ごしてしまいましたー
ながめは「長雨」と「眺め」の掛詞。小野小町も使ってますね。(花の色は・・・)

母が住む長岡には顔を出していたのでしょうか。伊都内親王も心配していたと思います。12月に、以前紹介したあのやり取りの歌があります。
伊都「老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな」 業平「世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もと祈る人の子のため」ー千年も長生きしてと業平は祈っています。
ちょうど偶然、さっき源氏の方で、横川の僧都源信が、70過ぎの母の最期を看取ったのを書いたのですが、母とは今生の別れができたのでしょうか?私は両親とも、仕事で間に合わなかったのが残念です。

翌年になって伊都内親王は病に臥します。
7月に業平の叔父・高岳親王は、仏教の本場・天竺に行こうとして、まず大宰府に向かいます。何だか三蔵法師みたいですね。

そして9月19日、伊都内親王は60歳の生涯を終えるのでした。
ここでかつての芦屋の女が産んだ美子という業平の娘ですが、もう19歳ほどになっています。そして藤原保則という業平と同年37歳の妻となりました。保則の母というのは、何と高子の乳母であった阿倍睦子です。
両者の間に話し合いがあったのでしょうか。想像は拙著に書きました。
美子も一人になる訳だし、そsてに保則は、真面目な官僚で評価も高かったようです。翌年には男児・清貫(きよつら)も生まれます。(後年、雷に打たれて亡くなりますが)

母の寿命を縮めてしまったと業平は後悔したでしょうか?業平は久々に出仕しようとするのでした。(続く)

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