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第33回 璋子の出家

崇徳天皇が譲位し、近衛天皇が3歳で即位した翌月の、栄治2(4月に康治に改元:1142)年正月16日、歌人藤原基俊が80歳で亡くなりました。
『百人一首』の「契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり」-関白忠通に、自分の息子の光覚を興福寺の講師にするという約束を取り付けて、恵みの露の言葉を命とも思っていたけれど、今年の秋も空しく過ぎていきますーという意です。
基俊は、俊家(道長の次男頼宗と伊周女との子)の四男です。当時歌壇で、革新的な源俊頼と対抗して保守的な歌を詠んでいました。ただ、解説書を読むと、自分の才能を鼻にかけるので評判は余り良くなく、官位もそれで上がらなかったと書いてあります。俊成は師事しましたが、俊成の息子定家はあまり評価していなかったと言われます。でも『百人一首』には選んでるんですね。ただ、この歌も息子のこと事を思っていると取れますが、約束を守ってくれなくて悔しい!と女々しく訴えている様にも取れます。

さて、基俊が亡くなった2日後、璋子(42歳)の家来である源盛行とその妻が近衛天皇の母后となった得子を呪詛したという事で土佐に配流になります。
璋子方が呪詛していたという噂は以前からありました。
ショックを受けた璋子は、養母だった祇園の女御が眠る(いつ亡くなったのかは不明)洛西の法金剛院に移り、2月26日、自分が産んだ末の子の覚性法親王(14歳)に剃髪して貰い出家します。女房の堀河(待賢門院堀河として有名)も出家します。
鳥羽法皇、崇徳上皇も御幸したとあるので同席したのでしょうか?

6月3日、清盛(25歳)の妻の高階基章の娘が亡くなりました。拙著では章子としましたが・・・二人の男子、長男重盛は5歳、次男基盛は4歳です。他に姫があったともされています。
6月5日、藤原頼長が宇治に弔問という記事を見つけました。やはりこの章子の実の父は忠実なのでしょうか?
男やもめとなった清盛は、同じ平氏でも公卿の家柄の平時信の娘時子(17歳)を後添えに迎えます。時子は宗盛、知盛、重衡、徳子などを産んで平家の盛衰を見た女性でした。清盛の母も早く亡くなっているので何か運命を感じていたでしょうか?

10月17日、璋子は供回りだけを連れて単独で熊野詣でに出かけます。かつては白河法皇、鳥羽上皇と共に行っていた熊野詣でですが、今度は独りです。璋子は何を思ったでしょうか?(続く)

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