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第87回 「古今和歌集」撰進の勅命

道真が亡くなった延喜(903)年11月30日、弘徽殿の女御穏子(18歳)は崇象(むねかた:後に保明と改名)親王を産みました。穏子の兄時平としては次代の帝が確保されたので万々歳です。醍醐天皇もにこやかでした。
翌年2月、早くも崇象親王は東宮となります。
その年には宇多法皇の想い人となった伊勢が産んだ皇子が夭折したという記事もあります。

明けて延喜5年。正月、宇多法皇は大覚寺に若菜取りの遊びをします。左大臣時平以下の群臣も供奉し、華やかなものとなりました。宇多法皇はすっかり時平と打ち解けていました。まるで道真の事など忘れてしまったかの様に。
そして和歌に造詣の深い醍醐天皇(21歳)は、4月18日、ついに「古今和歌集」撰進の勅命を出しました。撰者筆頭は、紀友則(61歳)、その従弟・紀貫之(34歳)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね:47歳)、壬生忠岑(みぶのただみね:46歳)です。
いずれも身分は高くないですが、優れた歌人として定評がありました。これから古今の名歌を集めるという事です。

貫之は、業平を尊崇していました。幼い頃、肩に抱かれた事もあるし、とにかく業平の思わせぶりな歌が大好きでした。
業平の未亡人などにも当たり、業平集を借りてきました。その他、僧正遍昭、小野小町などの歌の収集が開始されたのです。

後年、後鳥羽上皇は、藤原定家に命じて「新古今和歌集」を撰進しますが、わざと300年後の1205年にしています。先人を尊敬していたのでしょう。

尚、この頃、左大臣時平は、伯父の大納言国経が老齢にも拘わらず若く美貌の妻(業平の孫娘)を持っているというので、巧妙に奪っています。(続く)

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