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第107回 彰子の先導

万寿2(1026)年正月19日、39歳となった大宮彰子は出家して「上東門(じょうとうもん)院」と号します。
同じ正月に小野宮家の公任(61歳)も出家しています。

同じ61歳で老齢が目立ってきた道長に代わって、この所の諸事は彰子が主導していた形跡があります。
2月に、先年正室を亡くしていた弟教通(31歳)に、三条天皇の皇女禔子内親王(24歳)が継室として降嫁します。実は10年ほど前、三条天皇が対立していた道長への融和として、禔子内親王を頼通の妻として降嫁させようとしました。しかし頼通は妻の隆姫にぞっこんでこの結婚話で寝付いてしまって立ち消えになったという過去がありました。具平親王の亡霊が出てきて邪魔したとの説まで出ました。

そして後一条天皇の中宮となっていた威子が懐妊し、また土御門殿に宿下がりしてきました。道長は大変心配でした。前年に東宮妃だった嬉子が19歳で出産死したからです。12月9日、威子は皇女を産みました。母子共に健全で道長は大層喜びました。かつて次女の妍子が皇女を産んだ時は落胆して、その皇女(禎子内親王)の顔も見ようとしなかったのとは大違いでした。

同じ年に、小一条院に高松方の頼宗の娘が妃となっていて、男子(源基平)を産みました。前年7月に寛子が亡くなって、後添えとして同じ高松方の姪が妃となっていたのでしょう。もちろん彰子の承認があったと思われます。

しかしこのところ道長と彰子を悩ませていたのは頼通と能信の不和でした。会議でも私的でも二人は口論をよくしていました。鷹司方と高松方。正室と側室。外祖父は同じ左大臣の源氏なのに、常に一段差をつけられている高松方の息子として能信は頼通に喰ってかかっていたのでした。しかし老いた父・道長はどうする事もできませんでした。

妃を亡くした東宮敦良親王の後添えも見つけなければなりません。次女妍子も病勝ちになっており、娘の禎子内親王を新しい妃にする事が決まりました。妍子は一人娘の行く末が決まって喜んだ事でしょう。常に姉彰子の陰にひっそりと過ごしていた妍子でした。

翌万寿4年3月、19歳の東宮敦良親王と、15歳の禎子内親王の婚儀が行われました。禎子内親王はまだねんねで本当に寝ている時に東宮御所へ運んだと言われています。しかしこの二人から後三条天皇が生まれ、摂関政治の全盛に終止符を打つのでした。(続く)

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