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第118回 隆家の死

長久5(1044)年正月元日、前中納言・隆家が66歳で亡くなりました。元日に亡くなるのは3年前と同じだと人々は噂した事でしょう。
中の関白家の御曹司として生まれ、若い時はそれこそやんちゃして、花山法皇に矢を射て威嚇して、それが元で流罪となってしまいましたが。
剛毅な所は皮肉にも、政敵であった叔父道長の血を一番引いていると言われました。世の人々は「敦康親王様が帝になり、隆家様が関白になれば良い世の中になるだろう」などと言っておりました。

1016年の刀伊の入寇では、たまたま2年前に眼病の治療で大宰権帥(ごんのそち)になっていたのですが、勇猛果敢に追い払いました。38歳の時でした。3年後にまた京に戻り、元の中納言を続けましたが4年後辞しています。定子の遺した修子内親王などの世話をしていたので、隆家の死は内親王にとって衝撃だったでしょう。

隆家の子孫はこれまで紹介してきましたが多彩です。
一つに坊門家があり、信隆の娘殖子は高倉天皇の後宮に入って後鳥羽天皇を産んでその皇統は現在に繋がっています。その他、平治の乱の首謀者信頼、その妹は近衛基実の妻となって基通を産み、その後の近衛家に繋がっています。それから源頼朝の命を救った池禅尼、常盤御前の再婚相手、源実朝の正室など・・・水瀬流としていろいろ分家に分かれました。

面白いのは子孫の一部が九州に渡って(刀伊の入寇の時に関係ができたから?)菊池氏となって、南北朝時代、南朝側として奮闘しました。
そして更にその子孫に西郷隆盛がいるというのです。
隆家と隆盛。平安時代と幕末維新という時代を超えて勇猛果敢な血は受け継がれていたのでした。

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