第82回 道真全盛~嵐の前~
道真は、娘衍子(ゆきこ?)を宇多上皇の女御とし、そして昌泰(しょうたい)2(899)年2月、ついに右大臣にまで昇進しました。左大臣には摂関家の若き当主・時平(29歳)がなりました。宇多上皇は本当は道真を太政大臣にしたかったのですが、周囲の嫉視を感じていた道真は固辞したという話も伝わっています。道真この時55歳。ひな祭りの人形の左右大臣はこの二人の老人と若者をモデルにしているという説もあります。(人形は左右逆ですが。するとお内裏様は醍醐天皇?)
台閣のほとんどはアンチ道真であり、温厚な中納言国経も敵に回りました。一番反感を持っていたのは道真と同年の大納言源光(ひかる)でした。宇多上皇の叔父であり、自分は高貴だと身分意識が強く、「学者ふぜいが」と反感をあらわにしていました。
醍醐天皇はこの時15歳。やはり若い時平と気が合い、皇室はいつしか「上皇派」と「天皇派」に分かれて何かありそうな不気味な気運をもたらしていました。
宇多上皇は秋になって病となり気弱になって、10月仁和寺で出家しました。しかし贅沢な暮らしも女色も手放す積りはありませんでした。
宇多法皇は不安になっていました。「道真の追い落としは近いのではないか」と。次の自分の手足となってくれる家来が必要になってきます。
そしてその年の内に、時平の同母弟・忠平(20歳)と宇多法皇の異母妹で道真の姪にも当たる源順子(25歳)の婚礼が行われました。
忠平としては迷った事でしょう。しかし今のままいても、兄時平の下風に立ち、出世は見込めません。ここでこの婚礼を受け入れる事は「法皇派」を明言する事になります。
「一か八か」 忠平は兄時平と袂(たもと)を分かち、賭けに出たのでした。(続く)