第68回 光孝天皇と基経・道真の擦れ違い
55歳にして突然と帝位についた時康親王(光孝天皇)は嬉しくて仕方ありませんでした。そして基経に感謝し気を遣いました。
5月、光孝天皇は文章(もんじょう)博士・菅原道真(40歳)に曖昧であった「太政大臣の職掌」を尋ねます。天皇としては大恩ある基経(49歳)に箔を更に付けさそうという意図でした。
しかし学問に忠実な道真は唐の文献とかを調べて何と「職掌無し」と答えてしまったのです。左大臣が筆頭で、太政大臣は後から付け加えられた「令外(りょうげ)の官」だったのです。
道真としては当然の事を言った積りだったのですが、光孝天皇の意図を分からず、杓子定規にやった道真に面子を潰されてしまいました。
『空気の読めない奴め!(今風に言うと)』と光孝天皇はその時は何も言わなかったのですが、2年後に仕返しします。(讃岐守にしてしまうのです)
一方、光孝天皇は、基経はきっと外孫の皇子の即位を期待していたのに、何故か自分に皇位を譲ってくれたと思い込み、6月に自分の皇子女29名を全員臣籍に下してしまいます。自分の崩御後は遠慮なく外孫の皇子を即位させて下さいという意図で。(定省王はそれ以前に源定省になっていたという説もありますが)
しかしこれは基経にとって大いに「有難迷惑」でした。陽成天皇退位と引き換えに尽力してくれた異母妹・尚侍(ないしのかみ)淑子の養子定省王の即位がやりにくくなるのです。
陽成天皇退位の後、なかなか次の皇位が決まらなかった時、左大臣源融(63歳)が「近く皇胤をたずねればまろも」と嵯峨天皇の皇子の出自から自薦しかけた時、「一旦臣籍に下って即位した方はござらぬ!」と一喝したのはつい4か月前の事です。
その融は6月になってまた出仕し始めました。光孝天皇にとっては父方の叔父になる訳で相談役として出てきたのでしょうか?
夏に基経は娘の佳美子を入内させました。陽成天皇の妃にと思っていた娘ですが仕方ありません。しかし夫が55歳では皇子誕生は難しい話でした。
「せっかく陽成天皇を退位させ、高子を遠ざけたのに」と、「一難去ってまた一難」の心境を基経は感じていました。(続く)
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