第43回 平忠盛の死
仁平(にんぺい)3(1153)年正月、前年の後半から、平清盛(36歳)の父、忠盛(58歳)は病床にありました。
忠盛は父の正盛と同様、権力者白河法皇の覚えが目出度く、祇園の女御の娘が法皇の胤を宿したのを承知で妻に迎え、清盛が生まれたのです。
その妻は早くに亡くなり、中の関白家隆家の裔である宗子を後妻に迎えていました。
忠盛は病床から清盛に遺言します。
「平家を栄えさせよ。宋との貿易を盛んにして。それに叡山と事を構えてはならぬ」
危篤の時には、多数の妻から成る子女が集まりました。宗子は家盛亡き後、頼盛(16歳)だけが我が子でしたが、その他の妻から、経盛(30歳)、教盛(26歳)、忠度(ただのり:10歳)など多数が生まれていました。その子供たちもできて平家は隆盛の勢いでした。清盛がそれを束ねる器がありました。
正月13日、忠盛は亡くなりました。清盛と同年の親友・西行もやってきて詠歌を行いました。しかし葬儀の帰りで、忠盛の弟である忠正は小声ながら「これで平家は誰の子か分からぬ者が棟梁になるのか、嘆かわしい。これならわしが棟梁になった方がよほどいいわ」と言い放ちました。
これを伝え聞いた清盛は、この叔父とはうまくやっていけぬと実感しました。横にいた西行が「気にしなさるな」と清盛を慰めてくれたのでした。
忠盛の死で、忠盛が乳夫をしていた重仁親王(14歳)は美福門院得子(37歳)の意向で、父親の崇徳上皇(35歳)の元に返されました。養子にしていたのを解消する意図でした。同じように、養子にしていた守仁親王(雅仁親王ー後白河天皇の皇子:11歳)もすでに2年前に出家して、覚性法親王(25歳)の元に預けられていました。
守仁親王は母が出産の時に亡くなり得子の所に預けられ、父の雅仁親王とも疎遠でした。将来の不仲の原因がすでにありました。
得子とすれば、愛する我が子・近衛天皇(15歳)が二人もの后を迎え、皇子でも生まれればもう二人の養子はいらないという判断でした。
しかしその年の9月、最近健康そうだった近衛天皇が眼の痛みを訴えてきます。
関白忠通(57歳)はこれを利用しようとして「天皇の眼病は上皇(崇徳)と頼長の呪詛でございます」と鳥羽法皇に奏上したのでした。(続く)