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第83回 承香殿(じょうきょうでん)の女御元子(もとこ)の頼み(1)

江戸時代、将軍の手が付いた女性は、将軍が亡くなると、世継ぎの母以外は強制的に尼寺に行かされた様です。
しかし平安時代の天皇の妃は、崩御すると結構自由だった様です。
例えば花山天皇の妃婉子女王(為平親王の皇女)はその美貌で奪い合いとなり、結局香子の再従兄・藤原実資が妻としています。また一条天皇の妃でも
尊子(道兼娘)は崩御後、藤原通任(みちとう:済時息子)の妻となっています。

同じく一条天皇の妃に承香殿の女御元子という方がいました。父は「王朝第一の愚人」と酷評されているその時は右大臣の顕光でした。人望がなかったのでしょうか?
元子は、中宮定子が兄の事件でしばらく在宅していたのと彰子がまだ幼く入内してなかった期間、特に一条天皇に愛されています。なかなか美貌の人だった様です。しかし「想像妊娠」なのでしょうか、「水を産む」という不名誉な事になってしまいました。出産の時、さらさらと水が流れてそれで終わったというのです。更に疱瘡にもかかってしまい母も亡くしますが、それを父になじられます。やはりこの辺りが人望がない所でしょうか。

まもなく彰子が入内し、定子も亡くなって、一条天皇の愛は彰子のみに向かいます。けれど一条天皇は元子を忘れた訳ではなく、彰子が都合が悪い時は本当に何年に1回かですが、召しています。しかし元子の御殿になる所から何者かの遺体が5体も出てきて元子はまた出仕を渋ります。誰の仕業か想像がつきますよね?

元子33歳の夏、一条天皇が崩御します。しかし一周忌を過ぎた秋に、元子に愛を告げに来る公卿がいました。源頼定(36歳)です。
頼定はもともと従兄で結婚相手としても考えていた様です。しかし父の顕光が入内させたのでした。その後、頼定は、時の東宮妃綏子と密通して男児まで儲けたのでした。そして頼定は少し身分の低い女性と結婚します。

頼定が元子に逢いに自邸の堀河院に来ている事を知って、何故か顕光は激怒します。それは相手が「色好み」で名高い男なのか、自分に挨拶なしだったのか。このまま行けば側室扱いにはなってしまうのですが。
怒った顕光は何と元子の髪を切ってしまいます。強制的に尼にしてしまったのです。
悲しんだ元子ですが、周囲の励ましもあって、愛する頼定と車宿(くるまやどり:文字通り車を置く倉庫ですが、中には立派で住居にもなるものがあました)を世話して貰って住みます。(この項続く)

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