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第8回 冷泉院(3)

康保4(967)年5月、「延喜・天暦の治」と称された村上天皇は42歳で崩御しました。
天皇の心配はもちろん東宮の憲平親王(18歳)でしたが、賢明な群臣がたくさんいるし、16歳の英明な為平親王も控えていたのでその辺は安心していました。その年の2月から4月にかけて憲平親王の異常な振る舞いは特に激しくなっていました。
「結局、東宮をお辞めさせる事はできなんだな」
憲平親王は冷泉天皇として即位する事になりました。本来なら18歳は当時成人だし、村上天皇はほとんど摂政・関白がいなくて置かなくても良いのですが、冷泉天皇の状態を考えると誰か置かなくてはいけません。
これも本来なら外祖父の師輔がなるのが必然ですが、ここは一上(いちのかみ)左大臣・実頼(68歳)が外戚関係はないのですが、関白となりました。これより摂関が常置となります。

その後、東宮を誰にするかが問題となりました。本来なら同腹の16歳の英明な為平親王ですが、右大臣源高明の女婿となっています。高明が力を持てば、藤原氏にとっては面倒な事になります。
結局、9月にもう一人の同腹の9歳の守平親王が東宮となる事になりました。それも外叔父の藤原兼家(39歳:道長の父)がささっと式の用意をしてしまって、強引に東宮にしてしまったのです。
「藤原氏にしてやられた」と失意の源高明でしたが、2年後、更に謀反による左遷という悲劇が待っていました。

次の心配は即位式でした。本来なら大極殿で華々しくやるのですが、今回はだいぶ遅れて10月に清凉殿の近くの紫宸殿でいつもより規模を小さくしてやる事にしました。すぐに非常事態に対応するためです。それでも何が起こるか心配でしたが冷泉天皇はおとなしくしておいででした。
次に心配なのは11月に、新天皇が必ず行わなければならない大嘗会(だいじょうえ)の御幸です。これは輿に乗っておられるので異常事態があってもすぐには処置できず、群臣たちはまたやきもきしました。
しかし、冷泉天皇はずっと堂々と座っていました。もともと美貌な方なので威厳さえありました。
「きっと亡き師輔公が背中からしっかりと、お抱きしていたのだろうよ」
後で人々は言うのでした。(続く)

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