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第126回 鹿ケ谷の変(3)

安元3(1177)年6月1日早朝、西光(さいこう)が捕えられ、激しい拷問にかけられて鹿ケ谷での陰謀の全容が露見しました。途中、西光は恩知らずと清盛に罵られたので、逆に清盛を激しく罵倒しました。
「平家とて恩知らずじゃ!法皇様をないがしろにして。成り上がり者のくせ
に。聞けば清盛殿は十四、五の頃、我が養父家成の邸に出入りして、高下駄を履いていたので、高平太(たかへいたー平氏の太郎)とからかわれておったそうではないか。そして扇で顔を隠すのだが、鼻が出ているので、今度は鼻平太と呼ばれておったそうではないか。それが今や太政大臣にまで成り上がるとは。ははは・・・」
それを聞いて清盛は激昂し、西光は口を裂かれ、さんざんに苦しめられた上で斬首されました。

重盛の妻の兄・成親も捕えられました。清盛は直々に座敷牢にいる成親の所へ出むき、怒りに任せて言いました。
「恩知らずめ!平治の乱の折にそなたは信頼につき、本来は死罪であったのじゃ。それを重盛の妻の兄という事で助けてやったのに。そんな大恩ある平家を討とうとしたのじゃな!」
弁明する成親に清盛は、「人やある、人やある」と言って西光が白状した書を投げつけたのでした。

しかし重盛の必死の執り成しで翌2日、成親は備前に流罪となりました。
重盛は抗議の意味を込めて左大将を辞しました。
清盛は成親を許す気はありませんでした。
7月9日、成親は殺害されました。食事も満足に与えられず、最後は崖から突き落とされ、下には刃が立ててあったと言います。
それを聞いた重盛は自分の無力感に体調を崩し、やがて2年後に42歳で亡くなるのです。
よく、「重盛が生きていれば平家の滅亡はなかったかもしれない」と聞きます。しかし重盛の寿命を縮めたのは意外にも結果的に清盛だったのでした。(続く)


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