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第83回 破滅への足音

昌泰(しょうたい)2(900)年正月28日、宇多法皇派となった忠平(21)は次兄仲平(26歳)を差し置いて参議に抜擢されました。法皇派になったお蔭です。
しかし法皇は翌2月20日、ひと月も経たない忠平に参議を辞させ、出世に不遇な叔父清経(55歳)に譲るという美談に仕立てました。清経は基経の末弟でしたが昇進に恵まれていなかったので泣いて感激しました。
宇多法皇は、道真左遷が近い事を予見していて、後釜の忠平が巻き込まれない様に、そして前参議という箔をつけて政治の圏外に置いたのでした。

その年は3月に醍醐天皇の外祖父で温厚な内大臣・藤原高藤が63歳で亡くなり、また5月には清和天皇の生母で太皇太后・明子(あきらけいこ)がずっと病で引き籠ったまま、73歳で亡くなりました。『今昔物語』や現在人気の『応天の門』では淫婦の扱いを受けています。ひどい話です。

10月にその時、文章(もんじょう)博士となっていた三善清行(きよつら、きよゆき:54歳)は道真に「明年は辛酉(しんゆう:かのととり)で変革に当たるから身を慎まれ余。ついては右大臣を辞退された方が宜しい」と辞職勧告文まで届きます。辛酉は神武天皇が即位した年ともされています。

三善清行はかつて2つ年上の道真から試験で落とされた事があり、それを恨んでいたと言われます。
しかし道真はそんな勧告など無視。そして秋に、宇多法皇が可愛がっている斎世(ときよ)親王(15歳)と自分の娘との婚礼をさせます。斎世親王は、あの阿衡事件で失脚した橘広相(ひろみ)の娘が産んだ皇子。なかなか聡明でした。
しかしこの婚儀は、道真の完全なミステイクでした。相手に左遷の口実を与えたからです。
斎世親王の異母兄である醍醐天皇(16歳)側も緊張しました。最近何か対立している感じだし、法皇は斎世親王の方を可愛がっている。ひょっとしたら皇位を交代させられるかもしれない。若い醍醐天皇は猜疑心を持つようになってしまいました。そして時平を筆頭とする反道真派はそれを煽ったのです。(続く)

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