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第12回 芦屋の女

承和9(842)年10月に阿保親王が亡くなって、伊都内親王と業平は下人を伴って、領地の芦屋にそれこそ逃げる様に移り住みました。阿保親王が「密告者」の汚名を着ていたからです。今でも「業平町」「業平橋」などの地名が遺っています。

芦屋は瀬戸内海に面していて温和な気候で傷心の伊都内親王らを癒しました。しかし業平は18歳。奔放な若さを抑える事などできません。
業平はやがて地元で雇った召し使いの女と懇ろになりました。
母の伊都内親王はかんかんです。
「世が世ならどの貴族の娘でも妻にできるものを・・・」
父母どちらからいっても天皇の孫。高貴な血を受け継ぐ我が子が召し使いの女などと・・・

『伊勢物語』第40段には親が女を追い出したので、男は血の涙を流して詠む話が載っています。
「出(い)でて去(い)なば誰か別れのかたからむ ありしにまさる今日は悲しも」-おんなが自分で出て行くのなら、誰だってこんなに別れづらくも思うまい。だが無理に別れさせられるのだから、今までの辛さとは比べられぬほどに今日は悲しいことだー
そして男は悶絶してしまいました。親は慌てましたが、男はその日の日没頃から翌日の戌の刻(午後8時前後)まで気絶していたというので、丸々1日以上も意識がなかった事になります。親は許しました。
最後に、翁が「昔の若人はさるすけるもの(一途な)思ひをなむしける。今の翁まさにしなむや(できようか)」と結んでいます。

これを業平の回想と見れば、業平は確かに若い時に女児を儲けています。業平は芦屋の女と結婚したのです。
芦屋の女と思しき女性との歌の贈答が第33段にもあります。
男「蘆辺(あしべ)よりみち来る潮のいやましに 君に心を思ひますかな」-蘆の生えている岸辺から満ちてくる潮が次第に増すように、ますます貴女に思いがつのることですー
女「こもり江に思ふ心をいかでかは 舟さす棹(さお)のさして知るべき」-人目につかない入江のように人知れず思う心を、どうして舟を進める棹なんかで指し示してそれと知る事が出来ようか。(舟さす棹の、は指すの序)
最後に女の歌を田舎人ににしては「よしや、あしや」と投げかけています。

この芦屋の女の人はその後どうなったのか分かりません。
業平は25歳の時に、紀有常の娘と結婚しています。
その前年に京で落雷があり、伊都内親王の邸が燃え、内親王は別宅がある旧都長岡京に移転しています。ひょっとしたらその落雷で芦屋の女は亡くなってしまったのでしょうか?

もしそうだとしたら歴史の偶然に戦慄します。なぜなら芦屋の女との間にできた美子という女の子はやがて業平と同い年の藤原保則の妻となって、清貫(きよつら)という男子を産むのですが、その清貫は930年、清凉殿に落ちた雷(道真の怨霊とされる)で焼死してしまうからです。

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