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第67回 修明門院・重子

前回、承明門院で今回は修明門院でよく似た名前だし、どちらも後鳥羽上皇の妃だったんで間違えそうになります。親戚どうしだし。

さて、重子は源平合戦の最中、1182年、今までよく出てきた高倉範季(その時53歳!)を父に、平教盛(55歳)の娘教子を母に生まれました。教子の生年が分かっていなにのですが、とにかく父娘ほど離れていたのですが、夫婦仲は良かったようです。3年後に弟・範茂が生まれます。

1185年3月、壇ノ浦の戦いで父教盛や兄弟を失った教子は悲しんで事でしょう。打倒源氏を胸に誓った筈です。

範季の姪・範子が後鳥羽天皇の乳母をしていた関係で範季も後鳥羽上皇に近侍し、範子の娘在子が後宮に入るのに続いて重子も、最初女房となり、器量が良かったのかすぐに後鳥羽天皇の手が付き、16歳で守成親王(後の順徳天皇)を産みます。あと二人の皇子を産みます。

重子は気が強い女性だったのでしょう。後年、後鳥羽上皇の法要の権利を巡って時の帝・後嵯峨天皇方と一歩も引かず、争っています。
守成親王はの養育に当った祖母教子は、諄々と平家の素晴らしさを親王に語った事でしょう。親王は平家を尊敬し、平家を滅ぼした源氏を今度は倒そうと決意します。
親王は学問にも優れ、『禁秘抄』を著した他、百人一首の最後にも歌が採られています。(ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりあるむかしなりけり)
利発で気鋭な守成親王を愛し、後鳥羽上皇は兄の土御門天皇を16歳で譲位させ14歳で順徳天皇として即位します。
父子は打倒源氏、打倒鎌倉幕府で気が合っていました。重子も祖母教子もそれを快く思ったでしょう。
弟範茂は、亡き平知盛(「見るべきものは見つ」で有名)の娘。中納言の局を妻とし男児を儲けていました。中納言の局の母、治部卿の局も健在で、「平家の女ここにあり!」ですね。

しかし1221年、承久の乱で朝廷方は敗北。後鳥羽上皇は隠岐へ、25歳の順徳上皇は佐渡へ流されました。二人とは今生の別れでした。孫の4歳の仲恭天皇も生母の実家九条家で軟禁状態となります。雅成親王も但馬に流され、一度許されて帰京し再会を喜びますが、すぐにまた流されます。もう一人の皇子は天台宗の僧侶となり、1246年まで生存していた様ですから少しは会えていたでしょうか?

一瞬にして家族瓦解の憂き目を見た重子でした。支えてくれた母教子も1226年まで生存の記録がありますが、その後は分かりません。
また弟の範茂は承久の乱に加担したという事で、死罪。足柄山の近くの川で数人に頭を押えられて溺死させられたという事です。
しかし範茂の遺児で16歳の範継は奇跡的に助命されました。
承久の乱後、院政をする事になった守貞親王の乳母が治部卿の局だった事も関係あるでしょうか?

後鳥羽上皇と共に出家した、40歳の重子は気丈に、順徳上皇の子女の養育をしました。また後鳥羽上皇の母七条院や、乳母の卿二位などとも交流があったようです。
しかし1240年、59歳の時、当時住んでいた四辻殿に強盗が押し入り、重子の着ていた尼衣服も剥ぎ取られたという事で男手がない邸を狙われた事が分かります。
1242年、何度も出てきますが、四条帝が12歳で崩御。一旦重子の孫忠成王も候補に上がりますが、結局土御門上皇の皇子邦仁王が後嵯峨天皇となります。邦仁王の祖母在子とは後鳥羽天皇の寵愛を争って重子が勝ったのですが、今度の勝負は負けました。そして更に絶望した我が子順徳上皇が佐渡で自殺同然に46歳で崩御したのは衝撃だったでしょう。

1264年8月、83歳まで重子は生きました。その間、後鳥羽上皇の法要を自分の寺、安楽心院以外では認めないなど、後嵯峨上皇方と対立するなどまだまだ気丈な所を見せています。後鳥羽の後は順徳系が正統だという誇りを持っていたのでしょうね。
重子の孫の一人善統親王の子孫の娘の姉の方が足利義満を産み、妹が北朝の後円融天皇を産んでいます。在子の子孫と重子の子孫が結婚して子供ができるなど歴史の因果ですね。

※noteを開始以来、もう一つの『源氏物語誕生』が最近よく読まれているようです。(アクセス数で分かります)この『平家物語誕生』は文章が難解で申し訳ないですが、また宜しくお願いします!


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