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第112回 賢子の結婚と尊仁親王誕生

香子(紫式部)の亡くなった翌年、長元5(1132)年、賢子(34歳)は倫子の甥の参議源朝任(44歳)と恋仲になります。賢子は恋多き女として有名でもう何人目かの恋人でした。
 その年は、東宮妃となった禎子内親王が皇女を産み、また勇猛な源頼義が小一条院の侍となりました。前述しましたが、白河法皇が、
「小一条院は阿呆な方であったが、頼義が侍として仕えたので、誰も馬鹿にしなかった。朕も強い侍が欲しい」と言って、平正盛や、源義家を近侍させたという事です。
 12月16日には富士山が久々に噴火して京の人々を驚かせました。
「業平公が東下りした翌年にも噴火したらしい」
人々は噂しました。

翌年になって賢子は、今度は東宮に仕えていて見知っていた高階成章(なりあき:44歳)と恋愛関係になり、正式に結婚します。
ただ諸説あり、1038年に賢子は一子為家を産んでいるので、その前年に成章が親仁親王(賢子が乳母を務める)に仕えたので親しくなったとも言われています。とにかく賢子もやっと落ち着いたのでした。為家の子孫は皇統にも繋がっています。
また何より夫の成章は、あの在原業平と恬子内親王との間にできた高階師尚の子孫という噂があり、業平と紫式部の血統が合流したというのは不思議な話です。
成章は晩年に大宰大弐(だいに)となり、賢子もついて行ったので「大弐の三位」と呼ばれるようになりました。

そして長元7(1034)年7月、東宮妃禎子内親王(22歳)は三度目の出産でついに皇子尊仁親王を産みました。
主上・後一条天皇にまだ皇子の誕生なく、皇子は異母兄親仁親王がいるだけで、尊仁親王は有力な皇位継承者となりました。
しかし関白頼通は喜んでいませんでした。尊仁親王が即位すれば、藤原氏を母としない天皇の出現で摂関政治は力を失ってしまうのです。

不安がる禎子内親王を力づける人物が現れました。頼通に敵対する異母弟・高松方の能信です。
「心配なされるな。まろが必ず皇子を即位させます」
禎子内親王は不安と安堵の両方の表情を見せるのでした。(尊仁親王は後三条天皇となって摂関政治を衰退させます)(続く)

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