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第5回 伊都(いと)内親王

伊都内親王は業平の母です。そして桓武天皇の皇女です。
平城系というと何か負のオーラが漂うのですが、伊都内親王の出生にもその様なものがつきまといます。

伊都内親王の母は藤原南家・乙叡(たかとし)の娘・平子です。ところがこの乙叡の母・百済王明信は乙叡を産んだ後、桓武天皇の寵愛をずっと受けていたというのです。桓武天皇は母が渡来系からかその方面の女性を好んだようです。それにしても人妻を献上させるとは・・・もちろん臣下も出世を条件での承知かどうかは分かりませんが。江戸時代にもよく五代将軍綱吉などが臣下の妻を奪ったといいます。ただ幼い乙叡はさぞ寂しい思いをしたでしょう。

そして今度は乙叡の娘を献上です。つまり祖母と孫娘を愛した訳です。祖母の方には子供はできなかった様ですができていたらさぞややこしい関係だったでしょう。
乙叡の方は平城天皇とも因縁があります。平城天皇が東宮の時の宴席で近くで酒を吐くという事があり、それを平城天皇はずっと恨んでいたというのです。平城天皇は生涯において神経質な所が見受けられますね。

そして807年、平城天皇即位の翌年、異母弟の伊予親王の謀反という事件が起こります。伊予親王とその母吉子は無実を主張しましたが、川原寺に幽閉され、毒を飲んで心中しました。その際に連座として乙叡も中納言を解官されます。
後で全員が無実と分かったものの、乙叡は憂いて808年亡くなったといいます。享年48。伊都内親王は8歳でした。

そして824年、24歳の伊都内親王は帰京した阿保親王と婚礼し、翌年業平を産みます。内親王はこの出産で体を痛めたらしく二度と懐妊はしなかった様ですが、一人子の業平は母孝行で歌の贈答もあります。
12月。伊都「老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな」-この年の瀬に思いますと、日頃にもましてお目にかかりたいあなたである事です。
返し。業平「世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もと嘆く人の子のため」-世の中にどうしても避ける事のできない死の別れはあってほしくないものです。千年も生きていらしてほしいと嘆いている人の子にとって。(『伊勢物語』第84段)

伊都内親王の京の邸は落雷にあって恐くなって、長岡の旧宅に住んでいました。業平は出仕のため別に京に邸があり二人は別々に住んでなかなか会えなかったのです。

私も老いた母が一人淡路島に居て、加古川から帰った来た時は喜び、別れる時は玄関で別れを言っても、高い塀に手をかけて見えない子供にずっと手指を動かしていました。私には母の、さよならと言っている様な動く指しか見えない訳ですが、気持ちは通じあっていました。母子というのはそんなものなのでしょう。

内親王の母平子は内親王が33歳の時亡くなりました。その母の遺言で寄進した願文に内親王の手形が押しています。そこから判断して小柄な方ではなかったかという事です。
42歳の時、夫阿保親王が密告者の汚名を着て亡くなった後も伊都内親王は業平を頼りに生き続けました。業平が芦屋の地元の女と恋に落ちたり、高貴な姫と出奔騒動を起こしたりするのをはらはら見ながら、伊都内親王は60歳の生涯を終えたのでした。



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