見出し画像

第112回 摂関家の財産は平家のものに。

永万2(1166)年、摂関家当主の基実の26歳の早い死で、長男の基通(母は信頼の妹)は7歳だったので、当主は基実の異母弟・基房となり、摂政となりました。
ところが摂関家の家司(けいし)でありながら、清盛に心酔して、娘も清盛の息子の嫁にしている藤原邦綱はある策謀をしました。摂関家の莫大な所領は、将来基通に渡すという名目で、ほとんどを基実未亡人の僅か11歳の盛子(清盛娘)のものとし、実質的には清盛のものとなりました。
期待していた基房には僅かしか受け取れず、この処置をひどく恨みました。それは清盛の孫・資盛が下馬しなかった事にひどい暴力をし、更に平家を敵に回してしまいます。

一方、その年の11月11日に清盛は権大納言から内大臣に昇進しました。平家から大臣が出るというのは初めての慶事であり、清盛は大臣の意味である中国風の「相国(しょうこく)様」と呼ばれるようになりました。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?