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第52回 悪左府・頼長の死

保元元(1156)年7月11日未明、天皇方から平清盛を先陣として源義朝の軍も夜討ちをしかけてきました。
「それ。やはり」
こちらからの夜討ちを進言して頼長に却下された源為朝は吐き捨てる様に言いました。
「まさか・・・夜討ちとは・・・」
頼長は余りの事に顔面蒼白となり、腰が抜けてしまいました。
「為朝、為朝。そちを六位蔵人に任じる。よく戦え」
慌てていう頼長に為朝は舌打ちをして、
「こんな時に位を貰っても嬉しうございませぬ|」
と言い放ちながらも防御に立ちました。崇徳上皇は固唾を飲んで見守りました。

先陣の清盛は西の門に来ましたが、しまったと思いました。為朝が仁王立ちで待っていたからでう。為朝の強弓は凄まじく、清盛は目を剥きました。
味方の劣勢を聞いた義朝は、信西に、白河北殿に火を点ける事を提案しました。横で聞いていた関白忠通は、
「白河北殿は由緒ある所・・・そこに火をかけるなど」
しかし信西は断言しました。
「関白殿、戦は勝たねばなりませぬ。こちらが負けたら流罪ですぞ!」
と忠通を脅し、「構わぬ、火をかけよ。許す」

白河北殿の隣の邸に火をつけ、西風に煽られてたちまちに白河北殿に燃え移り形勢は逆転しました。
「院様、お逃げ下さい」為朝は崇徳上皇の手を引いて家来を使って馬に乗せて逃がしました。
「まろも・・・」という頼長に「ご自分でお逃げあれ」為朝は冷たくいいました。
頼長は近習と共に逃げる時、喉から耳にかけて矢で射ぬかれました。家来が矢を抜くとおびただしい血が出て、白い服が真っ赤になりました。
「とにかく父上のおわす宇治まで」

何とか馬で宇治まで駆け付けたものの、忠実は南都へ逃げたという事で、頼阿がは荷を積んだ柴舟に隠れて父の邸に辿り着きました。しかし意外にもあれだけ可愛がってくれた父・忠実は面会を拒否しました。
「もはや、これまで・・・」
頼長は近くに住まう母方の伯父の律師の所に運び込まれて息絶えました。舌を噛み切ったとも言われます。
「悪左府」と皆から畏怖された左大臣・藤原頼長の37年の最期でした。
頼長は近くに葬られましたが、後日、天皇方の武士によって墓は暴かれ遺体は晒されます。(続く)

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