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第62回 続・基経と高子の確執

業平が亡くなった元慶4(880)年の8月、菅原道真の父・是善が62歳で亡くなりました。是善は亡くなる前に道真に遺言します。
「お前はどこか危なっかしい所があるから心配じゃ。よく考えて行動せよ」
これは後の左遷を暗示している様でどきっとします。道真の母もすでに亡く、たくさんいた兄弟たちもほとんど亡くなってしまって、時康親王の妃の一人になっている妹がいて、順子という姫がいました。(後に藤原忠平の夫人になって、実頼を産みます)

11月頃、大和の国に修行に行っていた清和法皇は体調が悪くなり、東山の粟田院に戻りそして12月4日、31歳の若さで崩御しました。
業平を亡くした高子にとっては、やはり3人の皇子女を成した夫の死です。悲しいと同時に一体誰を頼ったらいいか分からなくなりました。

しかたなく不仲の兄基経に太政大臣を依頼します。基経は型どおりに辞退します。これはすぐ受けたら厚かましいという日本(中国も?)独自の風習で2回辞退して、3回目に受けるというのが通常でした。しかし基経は何と3回目も辞退してしまいます。こうなると嫌がらせです。

年が明けてしまいました。正月15日、高子は仕方なく、基経を生前最高の位階従一位に叙します。(正一位は死後に与えられます)
そして2月、4度目の辞退、4月、5度目の辞退を経て、やっと基経は勿体付けた太政大臣を引き受けたのでした。

高子も負けていません。この時、陽成天皇は14歳となり、翌年元服を控えていました。基経は娘の一人佳美子を天皇の后にしたいと何食わぬ顔で相談しに来ました。
「お断りします。帝にはまだ早いです」
基経は呆気に取られました。元服と同時に添い臥しの姫が入内するのはこれまた常識です。『源氏物語』でも12歳の光源氏は元服と同時に、16歳の葵の上を添い臥しの姫ーつまり結婚しました。
高子としては夫・清和天皇の二の舞いはさせたくない。つまり女色に籠絡させたくないという事でした。事実、陽成天皇はまだ同じ年頃の少年たちと乗馬をしたり相撲したり健康的な遊びをする事が好きだったのです。

母后の反対ならば仕方ありません。基経は唇を噛みしめました。

この年、在原行平(63歳)は藤原氏の学問所・勧学院に倣って、王氏のための学問所・奨学院を造りました。(続く)

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