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第88回 中宮・姝子(よしこ)内親王の嘆きと喜び

先帝・近衛天皇の皇后であった多子(23歳)の二条天皇(18歳)への入内は、もともとの后である中宮姝子内親王(20歳)を驚かせ、動揺させました。
鳥羽天皇の皇女で、美福門院得子の三番目の皇女である姝子内親王は人生そのものを政治的に利用されました。
まず待賢門院璋子腹の上西門院統子内親王(姝子内親王より15歳年長の異母姉)の猶子とされました。これは鳥羽法皇の配慮で対立関係にあった待賢門院側と美福門院側の融和のためと思われます。

内親王が15歳の時に同母兄・近衛天皇が17歳で崩御。結局、守仁親王(13歳)への即位を見据えて、守仁親王の父・後白河天皇(29歳)が即位、守仁親王は東宮となります。翌年、姝子内親王は16歳で東宮妃となりました。
姝子内親王は猶子の関係で上西門院統子内親王とは仲が良く、よく御所に出入りしていました。統子内親王の同母弟・後白河天皇もよく出入りしていました。天皇は不仲である我が子・守仁親王との関係修復のために姝子内親王に接近したと思われます。しかし逆にこれで守仁親王の内親王への愛は猜疑心のため薄れました。

そして守仁親王が16歳で即位(二条天皇)、内親王は中宮となりましたが、2年後に二条天皇は内親王の兄の后であった多子を強引に入内させたのです。
姝子内親王の嘆きは深く、多子の入内後、宮中から去り、そして20歳で出家しました。
その後ひっそりと内親王は生きて、36歳で亡くなるのですが、亡くなってからだいぶ経って男子と女子を儲けていた事が発覚しました。
相手は信西の息子の僧・澄憲(15歳年上)。内親王は秘かに32歳で男児(僧・海恵)、36歳で女児(歌人・八条院高倉、後に尼)を産み、女児を早産した時の大量出血で亡くなったのではないかとされています。
この出産は長く発覚せず、九条兼実の日記『玉葉』に記事があり、発覚しました。兼実の妻の母が内親王の乳母であったため事情を知っていた様で、何か『源氏物語』宇治十帖で、薫が女三宮の乳母の親戚から出生の秘密を聞くみたいな感じですね。

とにかく不幸のどん底にあった姝子内親王を慰め、励まし続けた僧・澄憲との秘かな純愛に晩年恵まれた事が良かったと私は思います。(続く)

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