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第95回 道真怨霊、再び。

延喜21(921)年は平穏な年でした。幼な妻とも言える褒子(15歳)を妃に加えた宇多法皇(55歳)はご機嫌でした。褒子は前年に皇子を産んでいました。法体である法皇はさすがに悩みましたが、生まれた雅明(まさあきら)親王を表向き醍醐天皇の皇子とする事で乗り切りました。子供を一人産んで褒子の美貌は更に輝くばかりになっていました。業平の曾孫とも言われていました。(時平が奪った、伯父国経の若い妻は業平の孫娘だったので)
2月に法皇は褒子と連れ立って春日神社に参詣したり、3月には褒子主催の歌合をしたりしました。

そして東宮保明親王(19歳)の妃となっていた仁善子(にぜこ:時平の娘)が懐妊しました。皇子誕生を祈る様に、10月、亡き空海に「弘法大師」の諡号を贈ります。
そして11月、仁善子は皇子・慶頼(よしより)王を産んだのでした。
喜ぶ醍醐天皇。「これで保忠(やすただ:時平の長男)に政権を取らせる事ができる」忠平は慶頼王の外戚ではないので摂政の資格がありません。

翌年、褒子は二度目の懐妊をしました。褒子によってまた女色に開眼した宇多法皇は、調子に乗って美しいと評判の藤原兼茂(かねもち)の娘を召します。しかし家来が慌てて制そうとしました。
「法皇様、その方は元良親王の想い人で・・・」
かつての主人・陽成上皇の皇子である元良親王(当時33歳)にはもちろん正妃はいましたが、「色好み」を自認する親王には恋人が多くいました。かち合ってしまったのです。
「何、構うもんか。朕の命令じゃ、召せ」
こうして宇多法皇は元良親王の恋人を奪ってしまいました。
元良親王には当然遺恨が残りました。「おのれ、父上から帝位を奪った上に、我から女性を奪ったな」

明けて延喜23(923)年正月3日、皇太子・保明親王は仁和寺に住まう宇多法皇に新年の挨拶に訪れました。しかしその頃、咳病(現在のインフルエンザか?)がまた流行していました。
親王は罹患し、3月21日、21歳の若さで亡くなってしまったのです。
父である醍醐天皇(39歳)は驚愕し、道真怨霊に恐怖しました。
「すぐに道真を元の官位に戻せ!」
4月、道真を元の右大臣とし、更に正二位を贈りました。
そして年号も延喜から延長へと改元しました。延喜という年号を道真が恨んでるかもしれないという事です。
その時、醍醐天皇の女御・穏子(38歳)はまた懐妊していました。(続く)


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