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第78回 大納言典侍(だいなごんのすけ)(1)

平家の婦人方は、過酷な運命の翻弄に堪え、根性がある人が多いです。
大納言典侍というのは清盛の五男重衡(しげひら)の妻です。父藤原邦綱(利基という、紫式部と先祖が一緒の人の子孫でした)が大納言だったのでその女房名でした。

前回までやった新大納言は、大納言成親の娘で、女房名をつける時、よく父親の官職を使ったので(紫式部も父為時が式部丞)、そして当然ですが後から来た人だったので「新大納言」とつけたのでしょうね。(今更ながら納得しました!)

父親の邦綱は、父祖の代までは下級官人だったのですが、頭が良く文章生をしたり、摂関家の忠通の家司として頭角を現しました。そして受領を歴任して財力をつけ、更に成功(じょうごう:朝廷の工事・行事などを請け負い見返りに官職を叙任されるいわゆる売官)で昇進していきました。

清盛とは同じやり手なのかウマが合い、平家の手となり足となって活躍します。例えば清盛の4女盛子は摂関家の基実の妻となっていましたが、基実が若死にした際、奔走し、摂関家の財産を未亡人の盛子にほとんど相続させるようにしています。(後年、後白河法皇に没収されましたが)

またその財力を背景に4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇、建礼門院徳子の乳母としました。
大納言典侍は本名輔子といい、重衡の妻となって、安徳天皇の乳母になっています。
重衡という人も、前回触れた維盛と同様美貌で「牡丹のような人」と言われました。だいたい平家の御曹司は色白の美男が多いです。(敦盛も)
また重衡は心遣いをよくし、冗談が好きで、例えば強盗の真似をして、女房を怖がらせて、悩み事が多い高倉天皇を笑わせたという話も伝わっています。

暗転したのはやはり1180年8月の源頼朝の旗揚げからでした。
輔子の年齢は分かりませんがこの時、重衡が24歳でしたから同じ頃合いでしょうか。
南都(奈良)の寺社も反平家となり、12月に重衡は奈良の攻撃の総大将となります。そして暗いので民家に火をつけたのですが(当時の常套手段)、冬の強風に煽られて火はたちまちにほとんどの寺社を焼き尽くし、何と東大寺の大仏まで焼け落ち、多くの僧侶や人々が亡くなります。

翌1181年閏2月4日、清盛は熱病にかかり亡くなります。盟友だった輔子の父邦綱も後を追うようにその20日後に亡くなってしまうのでした。

そして何度も出てきますが、1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲軍に平家は大敗。西走します。
大宰府まで行ったものの、やがて平家は盛り返し、摂津の一の谷までやってきます。
しかし1184年2月、一の谷の戦いで、重衡は馬の足を負傷させられ、それを見た乳兄弟の家来にも逃げられ、自害しようとしている所を源氏軍に捕えられました。
「三種の神器」との重要な人質。重衡は京、そして鎌倉へと送られていきます。輔子らを載せた平家の船は屋島そして壇ノ浦へと逃げていくのでした。(続く)


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