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第49回 親友・常行(ときつら)の死と在次の君の母

基経が四十の賀をした翌月の貞観17(875)年2月、同い年の従兄弟・常行は危篤の状態でした。本来なら大納言であるし、盛大な賀をできるのですが。
業平は11歳上ですが、常行とはずっと懇意でした。
なぜ懇意だったのか忘れていましたが(14年前拙著で書いていたのに!)、常行の母、つまり良相の妻は大江乙枝の娘で、大江音人(おとんど)の従姉妹で、音人と業平は知る人ぞ知る異母兄弟で(阿保親王が大宰府に流される時に、懐妊中の恋人を大江本主に預け、やがて生まれたのが音人)常行と業平は姻戚関係にあります。だから常行の姉・多賀幾子の四十九日法要が安祥寺で行われた時、業平も出席したのですね。思い出しました!

良房と良相が同母兄弟ながらライバルであった時、同い年の常行も快調で一時は基経の官位を上回っていたほどです。しかし例の応天門の変で良相が犯人(?)の伴大納言の味方をして左大臣源信を追い落とそうとした事で、良相自身も失脚し、常行の昇進も遅滞することになったのです。

大納言まで辿り着いたものの、かつてのライバル基経は摂政・右大臣として時めく身。常行は無念のまま亡くなる事となり、業平は病床の常行を見舞い、慰めた事でしょう。

さて、業平の次男に滋春(しげはる)(本当の次男は恬子内親王との密通でできた高階師尚ですが)という人がいます。母は不明となっていますが、良相の三女・染殿の内侍という方が有力な説です。
滋春は在次の君とも言われ、やはり歌人でもあったのですが、業平の次男だというのに生没年が分かっていません。
染殿の内侍と業平がいつ結婚したのだろうか?ひょっとしたらこの常行が亡くなる時だろうかと思っていたのですが、最近滋春の更に次男安平が882年生まれというのを知りました。常行が亡くなったのが875年ですからこれはあり得ません。ぎりぎり滋春が15歳前後で子を成したとして、滋春が生まれたのが867年前後。ちょうど良相は866年応天門の変で失脚し、867年に亡くなっています。
良相の長女・多賀幾子は文徳天皇の女御、次女多美子は清和天皇の女御。染殿の内侍もそれ相応の所へ行けるのですが、良相や常行は業平に頼んだのではないでしょうか?(推測)

染殿の内侍は業平の最後の妻として、滋春と共に880年5月に業平が亡くなるまで同殿していたと思われます。恐らく業平の歌を集めた『業平集』の編纂にも尽力したでしょう。

滋春の歌は『古今和歌集』にも入集し、更に『大和物語』の作者説もありますが定かではありません。4人の男子を儲けていた様ですが、甲斐の国で亡くなったと言われています。
染殿の内侍も全く消息が分かりませんが、多くの孫に囲まれて幸せな晩年を送ったと信じたいです。(続く)

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