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第49回 鳥羽法皇崩御

保元我元(1156)年7月2日、鳥羽法皇(54歳)は危篤の状態が続いていました。そして崇徳上皇(38歳)が見舞いに鳥羽殿へ駆け付けました。しかし法皇は、
「朕の死に顔を見に来たな。絶対に見せるでないぞ」
と言われました。当然、崇徳上皇には法皇の家来が「御意思でございます」と面会を拒否しました。
しかし崇徳上皇も、我が子であるのに(鳥羽法皇は祖父白河法皇の子と思っていましたが)会わせてほしいと粘り、家来同士が邸の前で悶着を起こしました。
そしてその中で、上皇の家来がたまたま蹴った石が、法皇の家来の眼に当ってしまい出血して大騒ぎになりました。上皇一行は帰らざるを得なくなりました。
その事件を聞いた法皇は、「何っ!」と眼を見開いてそのまま法皇は息を引き取りました。
「新院様に殺された!新院様に殺された!」
この噂話を聞いた崇徳上皇は情けなさのあまり身を振るわせて号泣するのでした。

一方内裏では、関白忠通の老齢(63歳)の存在を案じる美福門院得子(40歳)が、知恵者信西(51歳)に相談していました。
「これでもし関白殿が亡くなれば、子も幼いので、弟の頼長(37歳)が巻き返しにこよう。そうなれば仲の良い新院が力を持つかも知れぬ」
「女院様、大丈夫でございます。頼長を叩き潰す方法がございます」
信西はにんまりと笑うのでした。(続く)

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